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「映像の逆訴」


〜プロローグ〜

 東京の下町の風情が残っている根津から千駄木。朝方の早い時間でも、そこを吹きぬける初秋の風は、晩夏の風と溶け合って肌を熱く刺激する。今年は、何時になく暑い日が続いている。五十嵐幸三の目覚めは早かった。東京消防庁を退職して、ちょうど、二年が経った。それ以来、愛犬のブチを連れて散歩に出るのが日課になっている。退職してからと言うもの、新たに職についた訳でもないので、時間を持て余すことが多い。その日も、いつものように、朝の散歩に出た。五十嵐にとって、ブチとの散歩が一日の始まりだ。
さすがに六時というと、荷物を積んだトラックの往来は激しい。しかし、それでも不忍通りを行き交う人は少ない。ここ数年の間に、通りの様相は一変している。表通りに面して、マンションが雨後の筍ように立ち並んでいる。極端に言うと、マンション通りと言ってもいい位に林立している。そのため、木造建築物は姿を消すことになり、ロマン溢れる大正から昭和の面影を奪うことになっている。この手の動きは、このエリアだけに特有なことではない。東京中に拡がっている。だが、根津・千駄木に集中しているのは、東京大学をはじめ、有名な中・高・大などの学校が集中していることの、文京地区というセールストークが効いていることにあるらしい。交通の便がいいこともあって、人気の的になっている。価格も、三LDKの間取りで、4千万円を越えるぐらいだ。四十歳前後の四人家族には、手ごろな値段と言えよう。
 だが、一歩、表通りから中に入ると、それこそ、下町の匂いが漂ってくる。家屋も戦後の佇まいを残している。軒が連なっている風情は、哀愁を感じさせる。長屋が列なっている道には、盆栽や鉢が所狭と置かれていて、そこはかとなく人情味が感じられる。
 五十嵐は、そんな道をブチに引っ張られながら、定期コースになっている根津神社に向かった。昨日は、消防庁時代の同僚が来たので、三人で、久し振りにサントリーオールドの水割りをグラスで、6杯ほど飲んだろうか。酔いは、全く感じられない。清々しい朝の気分だ。四季に関係なく、もちろん、暑さ寒さにも関係なく、洗心の気分を満喫できる。これが、毎日の楽しみだった。
いつもだったら、日本医科大学通りの裏門から本殿に向かうのだが、この日、五十嵐は、東京メトロ線の根津駅から千駄木方面に向かい、不忍通りを左折して根津神社への参道に入った。その途中の道は、昔の面影をかすかに残しているが、表通り同様にマンション建設の準備が進んでいる。建築中の日本医科大学の基礎医学大学院を右手に進むと、根津神社の鳥居が、鳩の乱舞と共に迎えてくれる。
 五十嵐は、ブチと一緒に境内に入って行った。楼門を正面に見て、直ぐ右側の池には、錦鯉の群泳と亀の遅泳が対照的で、それがあるだけで、近隣の、建築工事の騒音の癒しになっているかも知れない。境内は静かだ。散歩する人も見られない。近代建築が周辺を囲っているにも係わらず、神の宿る神域は狭いながらも荘厳だ。
 根津神社は、江戸時代から根津権現と呼ばれ、庶民の信仰厚いお社だ。古くは、日本武尊が創祀したと伝えられているが、現在の社殿は、徳川五代将軍―綱吉の天下普請と言われる大造営で造ったものだ。祭礼も有名で、六代将軍―家宣が奉納した、三基の御神輿がでる天下祭りは、山王祭、神田祭とあわせて、江戸の三大祭りの一つになっている。
ブチが、楼門前の境内で、盛んに動きまわっている。飛び跳ね、ハシャグ感じになると、動きに反応して鳩が一斉に飛び立った。百羽ぐらいはいるだろうか。羽ばたきの音が、静寂の朝を瞬く間に雲散霧消した。その音に驚いたのか、ブチは、五十嵐の制止を振り切って、今は咲いていないが、つつじの群有する一角に駆け上がっていった。
 慌てて、その後を追ったが、ブチのスピードは六十歳を超えた五十嵐には、追いつくことは出来ない。ブチは一気につつじの中に跳び込んで行った。すると、急に吠える声が、辺りの静けさを打ち破った。
 (ワン、ワン、ワワン。ウゥ、ウゥ。ワン、ワン,ワワン。)
 いつものブチとは違う。時々は、五十嵐を振り切って遊内することもあったが、それでも今日みたいな事はなかった。五十嵐は、ブチの吠え声の方へ急ぎ足で近づいた。それまでの間もブチは吠え続けている。
根津神社のつつじ祭りは、つつじ丘一帯で行われる。四月から五月の連休中が盛りである。薄紫や白の花が丘一帯を覆う。その数三千株。見上げて見ると、花のお饅頭の塊が規則正しく列を成している。鮮やかだ。楼門周辺は縁日となって、昔懐かしいで出店が軒を並べる。神社一帯が老若男女で賑わう。
だが、それが終わるとつつじ丘は閉園となり、入り口が閉ざされる。竹材で作られた囲いに紐の鍵がかけられ、次のシーズンを待つ。連休中の喧騒が嘘のように引いている。そんな中をブチは駆け上がった。五十嵐は、仕方なく、入り口の紐を外して園に入った。シーズン中には、あれほどに咲き乱れ、人手で賑わっているつつじ丘も、今はそんな面影もなく静かだ。ただ、ブチの吠え声だけが境内に響く。五十嵐は、つつじの枯れ枝の抵抗を受けながら、先を行く。ブチに近づくに連れて、吠え声が耳を劈く。傍に行くと、興奮状態で相変わらず唸り声を上げている。五十嵐は、ブチを宥めようとして、首の鎖を抑えて直ぐ上の方を見ると、腰高ぐらいの、つつじの一群の奥に、男の人が後ろ向きで倒れていた。服装は、ジーンズにポロシャツ。年は、瞬間、見た感じでは、五十歳から六十歳の間ぐらいか。サラリーマンではなく、どちらかと言うと、自由業らしい出で立ちだ。死んでいるのだろうか。五十嵐は恐る恐る近づくと、救急隊員だった経験を活かして、倒れている男の側により、口元に耳を当てた。呼吸を、第一に確認した。鼻、口からの呼吸をしている兆候はなかった。次に、頚動脈に指を当てた。血管からのシグナルもなかった。改めてその男の死を確認した。息があり脈が振れれば、地元の日本医科大学の救命救急センターに運べば、助かるかも知れなかったが、それも杞憂なことだった。
 五十嵐からの第一報で所轄の本富士警察署から、制服・私服を交えて十二名ほどの捜査員がやってきた。つつじ丘一帯は、傍らの工事現場の槌音と捜査の喧騒が高まり、野次馬の登場が、それに輪をかけるような事態になった。
 根津神社の初秋の風は、パトロールカーのサイレンに消されるかのように、青空に舞い上がった。


〜1〜

 夕日が沈んで行く。今日一日の陰を背負って東の空を灰色から変黒へと誘うように。そして、西空には、朱の塊が確かな足跡を残しつつ、ビルの間に見え隠れする地平線の果てに、その姿を沈めようとしている。都会の一角は、やがて、襲来する闇を迎える準備をしている。
 東京の京橋界隈の賑わいはいつも通りだ。最近出来た高層ビル群から吐き出されるように、サラリーマンが陸続として、東京駅や地下鉄の京橋駅。それに、銀座方面に歩を進めている。
 東京の遊興地帯と言えば、昔は、銀座、池袋、渋谷、そして、新宿。今では、その地図が変わっている。と言うよりも、遊興地帯ではなく人の集合地帯と言った方いいかも知れない。一部の人たちは、相変わらず、新宿や渋谷で遊んでいる。しかし、時代が変わって、デジタルな時代の遊びは、かなり性格が変化してきている。
 六本木周辺、新橋・汐留、丸の内など、高層ビル群が時代の要請を受けたかのように人々を収容している。特に、ファッション情報とグルメ情報に誘われて、平日はおばさん連中。休日は若いカップルで溢れている。さらに、お台場一帯は、テーマパーク。ディズニーランドは、エンターテイメント・ワンダーランドだ。人の行動のパターンが一変している。生活の時間軸は、技術革新の波を受けて、まさにデジタルの恩恵を受けている。1か0かの世界が世の中を席巻しつつある。アナログの遺産は、一部マニアの垂涎の的になっているが、それも、少数派の我儘。肩身の狭い思いをしている人もいるのだ。
 都会の一日の喧騒は収まる事は、まず、ない。エネルギーの拡散は、伸張を続ける活動の源になっている。ビル建設のラッシュは、止まる事を知らない高層化の連続だ。霞ヶ関ビルからはじまった高層ビルは、東京から大阪、名古屋、そして中都市、地方都市へと伝播して、その勢いは一時の足踏みがあったが、今も続いている。
 老舗の菓子メーカー・明匠製菓は、その京橋の一角が地画整理された後に建てられた、二十階建のビルの三階から八階までを占めている。一階は、製品販売のストア。二階はレストランだ。イタリア料理店では、都内でも指折な名店だ。それ以外の九階から上のフロアーは、グループ二十五社の本社が入っている。
 明匠の朝は早い。社長の薮内 信吾は六時半には出社している。誰よりも早く来て、八階の鍵を開ける。社員の出社前に、管理や営業、それに生産・技術の拠点から送られてくる、メールやデータをチェックする。新聞六紙に目を通し、一日のスタートの準備をする。一通りの朝の仕事を終えると八時。コーヒータイムだ。とは言っても自分で淹れるのだが、やっと他の役員、秘書課員が姿を見せ始める。九時三十分の始業時には、すでに準備万端。すぐにでも指示を出せる状態だ。薮内は、これを、殆ど毎日続けている。日課ともなると、そんなに辛くはない。グループ全体の社員や家族の生活。取引先の従業員までを遠望すると、両肩への重みは、返って励ましになるのだ。その代わり、退社するのも早い。六時には会社を出る。夜の付き合いや宴会には一切参加をしない。これが、薮内 信吾の信条なのである。
 明匠製菓は、総合菓子メーカーである。社員数は四千人。年商は、三千五百億円。一部上場の名門である。チョコレート、ガム、スナック菓子、クッキー、アイスクリームなどが主力だ。中でも、チョコレートは国内シェアの三十%を占め、業界のリーダーとなっている。しかし、ここのところの、生活者の高級志向への変化からか、フランスやベルギー、スペインからの輸入品に市場を席巻されていた。
 業界のリーダーである明匠としても、このマーケットを失うことは会社存続のアイデンティーを見捨てることになる。チョコレートの明匠と言われてきたプライドがある。百年にも及ぶ歴史の中で、今が正念場だ。以前に、国産品から国際品へと言った広告キャンペーンがあったが、今では、国際品そのものが、国産品のような印象になっている。完全に、彼らのブランドイメージが定着している。今さら、彼らのイメージを破壊する事は出来ない。それよりも、生活者に、如何に、明匠の製品群を位置づけていくのか、差別性のある製品の開発。そして、コミュニケーションによる生活者との絆作りの確立が問われている。薮内は、その先頭に立って陣頭指揮をしていた。
 八階エレベーターホールに降りると、目の前に岡本太郎の作品が展示してある。これは、薮内の指示で、明匠に見えたお客さんが、力強い作品に触れて、勇気を持ってもらうために飾っている。このフロアーの東側のいちばん奥に、社長を初めとした役員室と応接室。隣に秘書課。その手前に経営管理室がある。その反対の西より一番奥の部屋が宣伝部だ。その手前に広報部と企画室。明匠の頭脳中枢が集まっているフロアーだ。
 東京フォーラムをまじかに見ながら、西の方を見やると、今まさに朱の塊が屋上に沈み落ち、暗い橙色があたり一面を覆い始めた。東京にまた、夜がやってくる。毎日は同じ事の繰り返しだが、明匠の一日は、同じ顔を見せる事はない。
 窓辺に浅茅和歌子が立っている。カットアウトされたかのようなシルエットが、夕焼けの中に浮かんで見える。彼女は明匠製菓の宣伝課長である。姿を隠しつつある西陽の圧倒的な橙光を受けて、目を細めながらジッと見入っている。紫のツーピースの後姿には暗い影が落ちている。何を思っているのだろうか。何に、思いを馳せているのだろうか。辺りを支配する闇が落ちきるまで、その姿を崩さなかった。視線の先には、鍛冶橋の交差点越しに東京フォーラムが、客船が横たわっているかの様に迫ってくる。浅茅和歌子は、時折、自分の逸る気分を落ち着かせる時には、こうして、窓辺に立ち、西の方を眺めるのだ。
 浅茅和歌子は、明日の明匠を決定するプロジェクトのリーダーを任されていた。成功するか失敗するかで、明匠の行く末が左右される。社長の薮内が感じる責任とは別の次元で、浅茅和歌子もプレッシャーを受けている。責任者として、今回のプロジェクトは是が非でも、成功させるしかない。自分の思いを実現するためにも。今は、そのことしか頭にない。
 部屋の中は騒々しい。広告部員が忙しそうに動き回っている。広告代理店からの電話やテレビ局からの連絡。役員からの問い合わせもある。五人のメンバーでは足らない感じだ。夕方のこの時間になると、関連セクションや外部の関係先と、進行状況と明日の予定についての連絡を取り合わなくてはならない。一日の仕上げの時間なのだ。誰もが殺気立っているが、そんなことにはお構いもなく、浅茅和歌子は、相変わらず動こうとはしない。
 日入りは終わった。西の方向にも闇が降りてきた。ネオンの輝きが急に眩しく感じられる。丸の内から日比谷方面のビルの明かりが放光して、周辺の闇に光の薄幕を作っている。浅茅和歌子は、暮れなずむ外景に縁を切ると、振り返り一通り部内を見回した。時計は七時を指していた。
 ラグビー部のキャプテンをしている志水が、汗を拭き拭き役員室から戻ってきた。途端に部屋中が汗臭くなる。体重は百キロ。髪の毛も水を被ったように濡れている。当然、ワイシャツも肌にベットリ纏わりついている。自席について、フッと息を吐いて落ち着くと、賺さず、
「ところで、志水係長さん、明日の準備は出来ているの。会議室はいいの。プロジェクターの用意。飲み物の手配。それから、プレゼンに出る役員の段取り。どうなの」
 浅茅和歌子の矢継ぎ早のチェックが入った。
 志水は、当然のごとく、そう言われるのを読んでいた。
「確認してきました。営業担当の吉越常務は出張中なので連絡は取れていませんが、秘書には言ってありますので、大丈夫です。他の役員は全てOKです」
 志水は、机上の書類を片付けながら言うと、周囲の部員も、浅茅和歌子からチェックが入ると、緊張感を露にしている。
「そう、吉越常務には、出ていただかないとね。常識的な判断が出来るのは、常務しかいませんからね」
 浅茅和歌子は、眉間に皺を寄せ、自信ある表情を見せながら、志水の傍にやってきて言った。
 志水は、ちょっと調子に乗り、
「そうですね。唯一、我々の味方になってくれるのは、常務しかいませんからね」
 と、言うと、浅茅和歌子は、志水の顔をまともに見つめた。そして、力の入った言葉を続けた。
「バカなこと、言わないで。社長が一番の味方じゃない。最終的には、社長が判断するのよ。この時代の気分をどう解釈するのか。生活者の嗜好そのものをどう分析するのか。面白いと思わない。それぞれの代理店が、どう戦略を組み立ててくるのか。それに、絵をどう見せてくれるのか。楽しみじゃない」
 そういう浅茅和歌子の眼には光があった。別に、意気込んでいるわけではない。淡々とした仕事の進め方が彼女の特徴である。十分に準備をして、社内外の力を思う存分に発揮させる。まるで、磁石に吸い付けられるように人が集まってくる。そうすることで、これまで数々の難局を凌いできた。それが彼女の魅力だった。
 浅茅和歌子は、志水の両肩に手を置き、軽く叩くと、自分の席に戻り冷めたコーヒー を一気に飲んだ。

 広告代理店、株式会社O&Uは、新興地に高層ビルラッシュが現出している品川にあった。四九階建ての高層ビルの三十階。その全フロアーを借りている。ビルの周辺は、再開発のラッシュ波が日夜を問わず、荒れ狂っている。騒音は日常的だ。だが、一歩ビルの中に入れば、そこは別世界。近代的な設備がセンターでコントロールされている。空調も快適だ。
 エレベーターは、低層階と高層階に分離されている。人間工学を採用した人に優しい設計になっている。一階でエレベーターに乗ると、三十階までは二十秒。あっという間に目的階に着く。揺れもないし、耳鳴りみたいな副作用もない。近代工学技術の成果が随所に採り入れられている。エレベーターホールを右に折れると、二百平米はあるだろうか、和風の香りを残しているエントランスに辿りつく。木目が美しい受付には、常時、二人の女性が位置している。さすがにサービス産業だけあって、お客さんに対する気遣いは万全である。
O&Uは、アメリカのO社と日本のU社とのジョインベンチャーの会社だ。中堅ながらも、ブランドクリエーションやインターネット、クリエイティブに特徴のある広告代理店である。社員数は二百七十人。売り上げは、四百五十億円。外資と国内の割合は半々である。明匠製菓をはじめ、S製薬やNビール、R化粧品など、クライアントの数は四百を越えている。二〇〇一年には、最高の五百五十億円の扱い数字があったが、今では、当時に較べて百億円以上もダウンしている。
 理由は簡単だった。一つは、親会社から来る社長が二年間という短期のため、有効な施策を打てない。それに、自分の任期中に問題が起きないようにするという消極的な態度が問題だった。役員もお天気・ゴルフの挨拶要員で、得意先の幹部や宣伝部員までもが、まともに相手をしてくれない。例えば、クライアントの宣伝部長が来ての打ち合わせをする際にも、営業担当の役員には声をかけるなと、言われる。たとえ役員でも必要なければ呼ばない。ましてや、挨拶は時間の無駄だと、はっきり指摘されることにも象徴されている。古いタイプの広告マンだけに、クリエイティブの話題やマーケティング課題の議論の場には、ポジションを得ることが出来ないのだ。
 二つ目は、その結果として既存クライアントをイージーに落としていることだ。広告の世界は生き馬の目を抜くような業界である。ちょっとでも油断すると、競合の代理店がすぐに入ってくる。仕事の質の低下とサービスを怠ると、あっという間に扱いが移動するのだ。今のO&Uは役員から現場までの組織対応が未熟だ。そのため、クライアントとのイコールパートーナーの関係が現場だけの対応になっており、役員の間で全く出来ていない。それが原因になっている。
 三つ目は、クライアントの新陳代謝、つまり、新しいスポンサーの流入がないこと。それもそのはずである。社員が受身になっているため、攻めの戦略・戦術提案が、出来ていないからだ。それよりも、高い給料を貰っている役員が、新規ビジネスの開発に消極的になっている。既存クライアントから無視されている自信のなさが、全くコミュニケーションのない、新しい企業に出向くことへの不安や恐怖になり、それと同時に、社員もボロを出させるのが怖いので、一緒に同道するのを嫌がっている節もある。
 そして、最後。それは、ゴマすり音頭の流行だ。局次長以上の幹部の平目現象が蔓延している。モラルも下がっている。現実に、老人殺しのゴマすりウイスパーは派遣されてきた社長には快かった。取巻きには自分の意向が反映される。彼らの意見と判断を当てにしていさえすれば、日常の業務には何の支障もない。上手く行っているという錯覚に陥るのだ。そんなセンス。これが、不幸の始まりだと言うことに気がつかない。月次の予算会議や全社局長会議での問題点はお座なりにされる。が、四半期や半期の活動審議会になると、一気に浮上してくる。
 それでも、とにかく、数字を作り上げて報告する。会議の時間さえ辛抱出来れば、後は乗り越えられる。そうすることで、ここ五年間ぐらいは上手くやって来た。それらは、落ち目を迎えている会社に多い典型的なパターンを示している。結果に現れている。社員には活気がない。モラルは低下し、上に優しく下には厳しいと言う、業績と連関した負のスパイラルに陥っていた。ここ数年、数を増やしている若い社員の離職率も業界内では話題になっていた。

 明匠製菓担当営業部長の冬来春近も、偶然なのか浅茅和歌子と同じように、西の空を見やっていた。京橋にある明匠製菓よりも階層が高いだけに、窓からの景色は美しい。遠景には富士山の雄姿も飛び込んでくるし、また、眼下には、品川埠頭に停留する客船や、貨物船を目の当たりにする。やがて、朱の占領が海面を紅く染め、次第に暗さを見せ始めるころ、部屋が騒々しくなってくる。得意先や媒体社、外部ブレーンと打ち合わせをしていた営業部員が戻ってくる。途端に、電話が激しくなり響き、怒号が彼方此方で行き交う。ここでも、部内が一気に殺気立ってくる。電話の鳴音は途切れない。それだけ、真剣勝負の仕事をしているのだ。
 会社はマイナス基調になっているが、冬来部だけは、成績が良かった。部員は八名。明匠製菓の他に、製薬メーカー・ゴルフメーカー・化粧品メーカーなど、大手クライアントを七社抱えている。年間の扱い金額は四十億円。部員一人当たりでは四億五千万円、利益も部全体で五億二千万円を上げている。O&U社では、トップクラスの成績だ。
 その内、明匠が半分の二十億円を占めている。明日は、その明匠が、秋に発売する新製品の広告販促キャンペーンのプレゼンテーションがあるのだ。明匠にとっては、三年振りの大型商品となる。それだけに、このプレゼンに勝たなくてはならない。担当部員は、自分の役割にしたがって企画内容の詰めや、明匠社内の情報収集に当たっていた。
 完全に日が落ちて七時を過ぎると、会議室に営業部員が揃った。これから、明日のプレゼンテーションのリハーサルが始まる。役割分担にしたがって作業を進めてきた内容の最終チェックとプレゼンテーションの段取りの確認をするのだ。三々五々、営業部員の他に、マーケティング、クリエイティブ、媒体、プロモーション、インターネット、PRのプロダクトチーム員が集まってきた。メンバーの表情には緊張感が滲んでいる。冬来から選ばれたチームだ。O&Uの精鋭が集まっている。これで駄目だったら、今の社内では、これ以上のチームを作る事は出来ない。守るにしても、攻めるにしても最後の砦となる陣容だった。
 頃合を見計らって、冬来が会議進行の口火を切った。
「いよいよ、明日になったな。この一ヵ月間、ご苦労さんでした。我々にとっても、勝てれば大きな扱いが期待できるが、それ以上に、明匠さんにとっては、これが失敗すれば、それこそ、死活問題となって跳ね返ってくる。業界が注目している製品だけに、成功するしかないのだ。そんな大事な案件に我々が参加できる事は、これから先、二度とないかも知れない。このプロジェクトに参加している、我らのアドマン、プロとしての生き様を見せてやろうじゃないか。
 相手の二社は、日本の広告業界を牛耳る巨人だ。一社は我々の親会社だ。相手に不足はない。図体がデカイからといって、必ずしもアイディアフルなわけではない。あいつらのことだ。担当役員や社長に根回しをするのだろうが、女課長の浅茅和歌子は、そんな事を間違っても許すはずがない。プランの中味で勝負だ。我々は、正々堂々と挑み、小粒の切れ味を見せつけようぞ」
 何時にない、冬来の挨拶にチーム全員が熱いものを感じた。チームにとっても、こんな経験をすることは珍しいことだ。それは冬来の言うとおりだ。大手の代理店ならともかく、中堅の代理店に、一案件が三十億円という、広告販促費が投資される企画競合に、参加できる事なんて聞いたことがない。こんなチャンスは考えられないことだ。それだけに、プロダクトチーム全員が燃えるのも当然である。大手の代理店は組織がしっかりしている。それ故に、総合力で攻めてくる。媒体の確保能力も、O&Uとは較べようがない。スポーツイベントや文化イベントなどの情報の収集能力にも長けている。外部機関や協力業者の支援体制も群を抜いている。特に考えられるのは、テレビ局や新聞社、雑誌社との密な連携を取ってくることだ。
 そんな巨大な競合相手にチャレンジするのだ。全員の闘志が湧くはずだ。大手の組織による総合力か。それとも、小粒ながら、ピリリと辛味が効いた一点突破力か。いずれにしても、明日のプレゼンで結果が出る。三十億円の予算が一社の独占になるのか、割れて半分になるのか。チームにとっても、会社にとっても大事なプレゼンになる。
 こんなプレッシャーが冬来には快かった。自分自身に負荷をかける。その抵抗力を如何に抑えていくか。そこには、全体を統率する「イメージと構想力」がいる。描いたイメージをチーム全員に浸透させ、彼らが社内外の資源を使いこなし、その「イメージと構想力」に基づいたアイディアなり、プランを創出出来れば、大手の代理店に負ける事はない。冬来はその点については自信があった。後は、チームが考えたプランや広告が、冬木自身のイメージと構想にあっていると判断できれば、決断するだけである。GOサインを出せば良い。
 そこの決断することに、何とも言い難い快感があるのだ。だから、冬来は、若い連中に対しては、常に、「イメージと構想力」を持て。それは、クライアントと生活者をブリッジする、コミュニケーションの専門集団としての責任であると、言い続けている。その事が、しっかりと理解でれば、大手の代理店には負けない小粒の存在感が出てくる。
 今回のチャンスは、グッドタイミングでチームに舞い降りてきた。これを物に出来るかどうか。冬来の手腕にかかっていた。ここ十年ぐらいの間に、代理店にも格差が広がっている。大手の広告主は上位代理店に集中している。そのため、中堅代理店は苦境に立たされる。特徴的なのは、広告主側が広告費のコストセービングを視野に入れたことだ。テレビメディアの一括購入が進んでいることだ。数百億円に及ぶメディア費を大手の代理店が差配するのである。そのあおりを受けるのが大手以下の代理店となってくる。
 ご多分に漏れず、O&U社もその中に入っていた。クライアント側の要望は先鋭になり、通り一片なサービスでは、満足どころか納得さえも得られない。個別のインフラ力では確かに大手と差が付くが、クリエイティブやプロモーションのアイディアには遜色がない。唯一チャンス、勝ち目は、そこにある。冬来は、そこに賭けているのだ。
 チーム全員が揃った。リハーサルの開始である。実際のプレゼンテーションの段取りに従って進めていく。冬来の挨拶が終わって、明匠からのオリエンテーションの確認をしようとした時に、電話が鳴った。一番若い筒井康男が反射的に席を立った。
(はい、O&Uです)
(冬来部長、いらっしゃる)
(どちら様ですか)
(明匠の浅茅です)
(浅茅課長。ちょっと、お待ちください)
 筒井はドギマギして冬来に、
「部長、大変です」
「何が、大変なのだよ」
 と、志水が言い放つと、筒井は声を荒げて、
「浅茅課長から電話です」
「浅茅さんから?」
「はい、そうです。どうしますか。席の方に回しましょうか」
「あぁ、そうしてくれないか」
 浅茅課長からの電話だ。明日が、プレゼンだというのに、急にどうしたのだろうか。緊急な用事でもあるのか。会議室に一瞬緊張感が走り、不安気な視線が冬来に集中する。冬来は、急いで自分の席に戻り電話を取った。
(お待たせいたしました。冬来です)
(冬来さん。ごめんなさいね。急に電話を差し上げて)
(いえ。明日のリハーサルを始めたところです)
(そう。ここまできたら、ジタバタしてもしょうがないわね)
 と、冷めた声が冬来に響く。
(えぇ、でも、担当者は、一分一秒までも頑張る心算なのですよ)
(そうよね。明匠に置き換えれば、わたくしたち宣伝部も、あなたたちと一緒よ。皆、明日に賭けているのよ)
(ところで、どうしたのですか。急に?)
(これから、出てこられない)
(これからかですか)
 浅茅和歌子の誘いが意外だった。
(えぇ、あなたがいなくても、作業は進むでしょ。O&Uさんの仕事って、そんな軟じゃないはずよ)
(まぁ、それはそうですが)
(じゃ、決まりね。銀座のバーで待っているわ)
(分かりました。三十分後に伺います)
 そう言って冬来は電話を切った。一呼吸おくために、八階の一番奥の窓際に設えた喫煙所に行きマルボロに火を点けた一息が旨い。いつものこの時間であれば、タバコを吸うと称して、社内外の情報交換をするために社員が集まってくる。だが、珍しく、誰一人いなかった。煙が換気扇に誘われるかのように揺らめいている。その紫煙が立ち昇る先に東京湾の夜景が見える。貨物船なのか客船なのか明光色の軌跡点が薄らぎながら段々と遠くなっていく。羽田に降りる飛行機の点滅も微かではあるが、視野の一点を強調している。肺の奥底に吸い込んだニコチンが一気に吸収され、これからの浅茅課長との密談の緊張感を、嘘のように解消してくれた。
 冬来は会議室に戻ると、プレゼンの確認作業は順調に進んでいるようだ。専任部長の白木が若いプランナーに指示を与えている。短期間で、ここまで纏められたのは白木の力が大きかった。今度のプレゼンを成功させれば、冬来は、白木を部長に推薦しようと思っている。
 というのも、何時までも、自分だけの天下にしておけない。冬来自身が一番良く知っていた。O&Uの弱みを。小さな組織だけに、個人のパフォーマンスが目立つのは仕方がない。それだけで、スムーズに進んでいる間はいいのだが、何れ、ボロを出すようになる。なんでも自分だけで出来ると言う錯覚が、齟齬という滝つぼをより拡げ、より深くして、最後には収集をつかなくさせる。自意識過剰が、自分の至らないところを覆い隠し、独断の道を歩ませる。気がついた時には、泥沼から這い出すことはもはや不可能で、結局は数字を失うことになるのだ。サッカーで言えば、レッドカードだ。自分の至らなさを知る。それを知れば、個人のパフォーマンスは、やがて組織のパフォーマンスに変化する。そうなれば、滝つぼに落ち込む前に手を打てるようになるのだ。白木を部長にすれば、その後に続く蛯原や筒井が、至らなさを知りつつ最善の手を打つようになってくる。その繰り返しがO&Uを強くするのだ。
 冬来は、それをいつも心がけていた。
「ちょっと、出掛けてくる。今日は戻らないから。蛯原、後は頼むぞ。あぁ、それから、下のモスバーガーを頼んでおくから、三十分後に取りに行ってくれないか。明日は、明日の風が吹く、だ。おーい、皆、任せたぞ」
(お疲れでー、す。ゴッさんでー、す)
 と、いう声がチーム全員から上がった。冬来は軽く右手をあげた。振り返ることなく会議室を後にした。蛯原の溜息が冬来を送った。
 冬来は、部員を信頼していた。今までの流れを見ていると、冬来の描いた「イメージと構想力」が、しっかりと、プレゼン内容に網羅されている。彼らも成長したものだ。大手の代理店に伍する提案力が、既に備わっている。最終段階に自分が居なくても安心出来る。それぐらいの実力を持っている。チームの状態は最高だ。負けるはずがない。万一、負けることがあれば、全て、自分の責任だ。だが、そうはならない。そうなるはずはない。なぜなら、今回も、いつもの勝ちのパターンに入っているからである。冬来は、そう確信してエレベーターに一歩を力強く踏み込んだ。

 銀座は相変わらずの人盛りだ。一日中、人出が絶えることがない。それもそのはずだ。並木通りを中心に電通通りと中央通りの間は、世界のブランドショップが並んでいる。それを目当てに女性たちが集まってくる。銀座全体が、ファッションブランドの一大テーマパークとなっている。それが、昼の銀座なら、夜の銀座は電通通りを挟んで、細かい路地裏までネオンが輝き、ビルの一,二階のファッション店に、光のデコレーションが灯ると、昼の銀座が夜の銀座に一変する。ドレスや和服で着飾ったホステスが目立つようになると、それに連れて、酔客が何処からともなく溢れだして来る。夜の銀座の始まりだ。
 BAR「式部」は、銀座電通ビルの直ぐ裏にあった。「あやめ」なのか、それとも「カキツバタ」なのか、立体感ある彫刻の重厚な木製のドアを入ると、右側は十人がけのカウンターになっている。左側は、六人位がゆったりと座れるテーブル席が四卓並んでいる。照明もステンドグラスの淡い光源を活かすべく、間接光が各テーブルを照らしている。
 冬来は、五分遅れて「式部」に着いた。八時を過ぎたばかりなので、店には客はいない。込み合うのは十時を過ぎてからだ。ただ一人の女性が、カウンターの一番奥の席にいた。浅茅和歌子だ。何時もは、髪の毛をアップに束ねているのだが、今日は、なぜなのか肩までかかるように下ろしている。冬来のほうをチラッと見て、肩に掛かった黒髪をかきあげると、彫りの深い横顔に憂いが浮かんでいる。淡い照明の演出なのか、大人の女のムードが辺りを支配している。冬来自身、何回か浅茅和歌子と食事をしたり、飲みに行った事はあるが二人だけというのはなかった。殆どが、仕事の打ち上げの時などで、明匠チーム員と一緒のことが多かった。
 冬来がドアを開けると、
「いらっしゃいませ。ようこそ」
 カウンター越しにバーテンダーが冬来に声をかける。冬来は、右手を上げて彼に挨拶をすると、
「課長、すいません。遅れました」
 冬来は、約束の時間に遅れた事を率直に詫びた。
「五分よ。いいの」
 いつもの浅茅和歌子らしからぬ態度だった。
「それよりも、ごめんなさいね。急に呼び出したりして」
 隣の席に座ると、エスティローダーのフラグランスなのか、大人の香りが鼻腔を擽った。賺さず、
「吃驚しましたよ。こんなこと、初めてだったので」
「あら、ご迷惑だったかしら」
「いぇ、そんな事はありません。僕にとっては、光栄なことですよ。課長からお誘いを受けるなんて」
 細面の顔が向けられると、形のいい鼻が眼に飛び込んでくる。一つひとつの動きが快い。
「冬来さん、その、課長さんって止めてくれない。こんなところで、そういう言い方はヤボって言うものよ」
 冬来の杓子定規な対応を弱く咎めた。
「でも、じゃ、なんてお呼びすれば良いのですか」
「そんな事、あなたも子供じゃないのだから。浅茅で良いのじゃないの。まさか、和歌子さんなんて言えないでしょう」
「そんなこと言えませんよ。間違っても。仕方がないです。浅茅さんと呼ばせていただきます」
「まだ、あらたまっているの。いい加減にしたら」
「はぁ、すいません」
 冬来は、浅茅和歌子とこんなにフランクな会話をしたことがない。仕事人間で通っている彼女は、いつもフル回転。男に弱いところを見せたことがない。それが、最近では、明匠社内でも話題になっているのだが、浅茅和歌子の態度が変わったと評判になっている。隣の彼女を見ていると、冬来自身もそう思った。
「ところで、冬来さんは、何をお飲みになります」 
「課長、じゃなくて、浅茅さんは何をお飲みなっているのですか」
「わたくしは、マスターのオリジナルカクテルの《和歌子》」
「えっ、浅茅さん専用のカクテルがあるのですか」
「えぇ、ジンベースのカクテルよ」
「じゃ、僕もそれをいただきます」
 冬来は、いつもとは勝手が違うが、浅茅和歌子とこうして一緒の時間を持てる事は、仕事上でもプライベートでも嬉しかった。明匠のキーマンである、浅茅和歌子との接点を強化できれば仕事上は鬼に金棒である。一方で、女性としての浅茅和歌子も魅力があり、社内でも抜群の人気を誇っている。得意先の女性でなければ、個人的な付き合いをしたいと思っているのは、冬来や現場の人間だけでなく、役員もそう思っているに違いない。多分、こうして、浅茅和歌子と二人だけで、席を供にした社員は、冬来が初めてだろう。
 それにしても、浅茅和歌子はミステリアスな女性だった。彼女のプライベートについては、誰も知らなかった。明匠の社員になったのも、どういう経緯があったのか。途中入社の彼女が、消費財メーカーとしては最も重要な宣伝セクションの責任者に、なぜ、抜擢されたのか。不思議なことなのだが、明匠の社員も、冬来たち代理店の人間も知る由もなかった。だが、仕事は出来る。構想力もあるし、仕切りも良い。判断も早ければ、果敢な決断をする。だからこそ、今度の新製品導入の責任者に任命されたのだ。このプロジェクトの成否は、全て、浅茅和歌子の両肩にかかっている。
 言って見れば、明匠の宣伝部は、エリートコースである。現社長の薮内も宣伝課長、部長を経験して役員なっている。吉越常務も宣伝部長を経ての役員。田尻部長も浅茅和歌子の前の課長だった。こうして、明匠の宣伝部を通過することが役員への道でもあるし、最終的には社長へ登りつめる経路になっている。 
 その宣伝課長に浅茅和歌子が就任した際には関係者だけでなく、産業・経済界の宣伝グループの中でも話題になった。名門、明匠製菓の宣伝課長に女性がなった。前任の田尻部長でさえも、突然の辞令に驚いたぐらいであった。ましてや、その下にいる、宣伝部員にとっては、全くの寝耳に水。明匠の宣伝部は大丈夫なのか。誰もが、疑問に思った人事だった。
 ところが、三年経った今、浅茅和歌子を疑問の感じる関係者は一人としていない。競合他社が数字を落としている中で、明匠だけは前年をクリアし、尚且つ、利益を出している。浅茅和歌子のセンスが、それだけの実績を残していた。
 改まって、浅茅和歌子が冬来をリードした。
「ねぇ、冬来さん」
 声が甘い。
「はい、なにか」
「明日のプレゼンの件ね」
 冬来は、構えて言った。
「えぇ、何かあるのですか」
 浅茅和歌子は。カクテルを口に含んで一気に飲み込んだ。そして、
「私が、一番、注目したいのは、CRとインターネット、なの」
 冬来は、浅茅和歌子のポイントを聞いてしめたと思った。大手の戦略はだいたい読めている。利益を出すためにメディアが中心だ。それも、テレビに集中する。タレントも当然、提案してくる。だが、浅茅和歌子は、当たり前の路線は拒否するはずだ。冬来の読みどおりになりそうだ。
「いやぁ多分、課長、失礼。浅茅さんは、そこのポイントをついてくると、思っていましたので、我々なりに、準備はしていますがね。」
「あら、そうなの。さすがね。薮内もそこを突いてくると思うわ」
「浅茅さん、手の内を明かしたくないのですが、プレゼンの一番手は我々ですから、敢えて言えば、テレビとインターネット。それに、生活者との最短のコンタクトポイントに重点を置いた内容にしてあります」
 ヤフーが登場して十年。インターネット人口は七千万人を超え、情報の双方行や検索・比較には、インターネットはなくてはならない存在になった。それだけでは、コミュニケーションは完成しないが、個人にコンタクトするには、格好のメディアに成長している。
「そうなの。明日が楽しみね。ところで、冬来さん」
 浅茅和歌子は、声を落として語りかけてきた。ジッと見られると、思わず、ゾクゾクするような感じになって来る。眼窩が深く、濡れたような瞳に挑まれると、体の中に沸き起こるエネルギーを奪われるような錯覚に陥る。これが、浅茅和歌子の魅力だ。
「これからが、相談なの」
「お待ちしていました。どうぞ、仰ってください」
「実はね。冬来さんたちの後、二社のプレゼンがあるでしょう」
「えぇ、我々が、午前中の時間をいただいていますから、後の二社は午後ですよね」
「あなたのところの親会社が、五時に終わるわ」
「五時ですか。浅茅さんも大変ですね。そんな長い時間、緊張しっぱなしで、身体は持つのですか」
「そんなのは、たいした事ないの。それよりも、その後、時間をくれる。大事な話があるの」
 ジッと眼を見ながら言われた。
「いいですよ。でも、それって仕事の話ですか?」
「もちろん、そうよ。冬来さんのところには、きっと、良い話になるはずよ。O&Uの再生に、明匠もお役に立ちたいわ」
 冬来は、浅茅和歌子の意外な一言に、直ぐに反応した。
「本当ですか。当然OKです。喜んで、お付き合いをさせていただきます」
「あら、どうしたの。急に、また、改まったりして」
「そりゃそうですよ。浅茅さんからの頼みごと、何回もあるとは思えないですからね。期待に応えたいと思います」
 冬来は、喜色満面に、浅茅和歌子の口元を見ながら言うと、
「よかった。明日に影響が出ない程度に、今日は飲みましょう」
 浅茅和歌子は、そう言って、伏し目がちになりながらも、カクテルのお替りをした。冬来は、自分もカクテルを口元に運んだ際に、もう一度、グラスを右手で遊んでいる浅茅和歌子に視線を移すと、彼女の横顔に何か暗い影を、一瞬を見たような気がした。だが、それも、ほんの数回の瞬きの間だった。それよりも、今日の浅茅和歌子の話はいい話だ。低迷しているO&Uの気分を変えることが出来る。社員の中に、自分たちも出来るのだという勇気や結束する雰囲気が醸成できる。それ以上に、いままでのマイナス収入に終止符を打つことが出来る。社員の住宅ローンや子供の教育費。これらの心配から、やっと解放される。そう思うだけで冬来は嬉しくなった。自分でも不思議に思ったのだが、少し上擦った声で、
「課長、あ、また間違った。浅茅さん、飲みましょう。今日は付き合いますよ。それにしても、このカクテル美味しいですね。ジンベースに何が入っているのですか?黄色の色合いが、何とも言えませんよ」
「そうでしょう。でも、中味は秘密:::。その内に教えてあげる」
 浅茅和歌子のもったいぶった言い方に、冬来はしびれる感覚になった。アルコールの酔いが、その気分をますますハイにする。
 二人の顔に微笑が浮かぶと、お互いに(乾杯)の仕草をするためにグラスを持ち、目の前で視線をまじ合せて軽い音を響かせた。
 冬来は、この際、浅茅和歌子にトコトン協力しようと意志を固めた。


 翌日の朝は快晴だった。冬来はプレゼンの前に、散歩がてらに近所の愛宕神社に願をかけに来た。六時にもなれば東の空に燭光が輝き、神社の緑と奇妙にバランスが取れている。ここの石段は急勾配で、三代将軍徳川家光公の時代、四国は丸亀藩の家臣―馬術の名人―間垣平九郎の乗馬による、山上の、梅の手折りの故事で有名である。両脇には紫陽花が咲き乱れ、初夏の風にしては湿気がなく爽やかである。
 冬来は、自分自身で、勝負だと思った時には、愛宕神社に来るゲンを担いでいた。過去のプレゼンの際もそうだった。明匠の特保キャンペーンの時などは、プレゼン日の一週間前から願掛け、参拝に毎日来ていた。不思議なことに社殿の前に立つと、何故なのか心が落ち着き、頭の中がリフレッシュされる。アイディアも湧いてくるし、競合の企画競争に負けたことがなかった。ご利益があったのだ。今日も、その神のご加護とツキに肖りたいと、冷たいシャワーを浴びて、身を清めてやって来た。 
 昨日の浅茅和歌子との会話を思い出しながら、石段を一歩一歩上がっていく。反芻しながら、彼女の一挙手を頭の中に再現してみると、O&Uにとっては、申し分のない内容だった。最悪でも、幾分かの扱いは確保できる。絶対に負けはない。プロジェクトチームも喜ぶに違いない。会社に対しても、責任を果たすことになる。
 広告代理店の源泉は、現場の力である。日常の仕事が評価される。特に、O&Uの場合は、大手の代理店との競争である。彼らの二倍も三倍も努力をしなければならない。それで、同等の評価になる。営業だけでなく、媒体も企画もセールスプロモーションも、そして、クリエイティブも、さらに、管理部門までが一体となって、対クライアントへのサービス活動に従事する。その姿勢が、新しい仕事を生むことになる。  明匠は、というよりも、浅茅和歌子が、O&Uのその姿勢を認めてくれたのだ。明匠へのチーム全体のセンスを買ってくれたのだ。冬来が、明匠を担当して七年が過ぎた。彼女が来るまでの扱いは、年額にして一億円に満たなかった。冬来は、浅茅和歌子に賭けた。PL上では赤字になるのだが、反対を押し切って、社内外の優秀な人材を集めてプロジェクトチームを組んだ。
 女性向けに特保製品のコンセプトを提案したところ、着任したばかりの浅茅和歌子に認められて、一気に数字が伸びた。それが、三年前のことであった。それからも、提案を絶やすことなく、努力も惜しまず、飽くなき理想を持った結果が二十億円の扱いになっていた。
 石段を登りきると、松の木立の先に、朱の社が境内に映えている。朝日の反射を受けて、社に反射する朱の拡散は、神々しく辺りに蔓延している。境内には、一組の親子と思しき二人が、社殿の前でお参りをしている。中には、御百度参りではないが、毎朝、参拝に来ている人もいるらしい。病的な強迫観念ではないのだが、日常の習慣として、そうしないと、一日がスタート出来ないという人たちもいるのだ。回数こそ違え、冬来が、プレゼンの前に来るのも形を変えた、御百度参りなのかも知れなかった。その結果、安心してプレゼンの場に立つことが出来るのだ。 
 冬来は、残酔の余韻を感じつつ社殿の前に立つと、五百玉を取り出し賽銭箱に入れた。あぁ、なんてケチなんて思うかもしれないが、気は心。一呼吸入れて、
(二拝二拍手一拝)をして、
 何気なく、後ろを振り返ると。そこに、一人の女性が立っていた。冬来は、(あぁ、)と、声を上げた。白いツーピース姿の浅茅和歌子が冬来の目の前に現れた。逆光の中の浅茅和歌子は、光のコントラストに浮かび上がり、シルエットが作り出す余りの美しさに、暫し、視線を奪われた。
「どうしたのですか。こんな、朝早く」
 冬来は、意外な展開に慌てた。
「あら、昨日、言ったこと忘れたの」
 浅茅和歌子は、殊投げに言い返すと、
「えっ、なにか言いましたっけ」
「やはり、忘れたのね。あなた、わたくしに、明日は、近くの愛宕神社に行って、願をかけてきます。って、言いませんでしたこと」
「そんな事、言いましたか。それで、わざわざ、ここまでお出でになったのですか」
「そうよ。別にご迷惑をおかけしませんから」
 そう言うと、社殿の前に立った。
「なんでまた、そんな気持ちになったのですか?」
 冬来は理由が聞きたくなった。
「そんなこと、理由はどうでも良いでしょう。それよりも、わたくしも、お参りをさせていただきます」
 浅茅和歌子は、冬来を押しのけると、同じように賽銭箱を目の前にして、(二拝二拍手一拝)を繰り返した。頭を上げると、顔の正面に朝日をまともに受けた。目を細めながら、冬来のほうに近づくと、
「今日は、明匠は勿論ですけど、O&Uのためにも頑張ってね。わたくしは、一足先に会社へ行きます。じゃぁね」
 冬来は、何も語らずして静かに浅茅和歌子を見送った。形の良い白いスーツの揺れ具合が石段に隠れるまで、ジッと見入って視線を外すことはなかった。
 鳩の群れが一斉に飛び立った。


〜2〜

 明匠製菓のデジタル対応の会議室は二十階にある。遥か眼下に東京フォーラムや遠景には、丸の内や皇居が望める。その二十階の一番奥のプレゼンテーションルームでは、既に、O&Uのプレゼンテーションが始まっていた。
 明匠側は、社長の薮内信吾、常務の吉越守、その他に新製品担当、企画担当、営業担当の取締役。窓口になる、広告宣伝部の田尻部長、浅茅課長、広告部員五名が参加している。一方、O&Uは、冬来部長以下、プロダクトチーム全員十五名が立ち会っている。これは、冬来の戦略だった。バブルの頃には、こういうシーンを経験することは結構あったが、それ以降のバブルが弾けた後のO&U程度の広告代理店には、今回のように、三十億円という破格の予算のチャンスはそんなに巡って来なかった。だから、冬来はチーム全員にプレゼンに参加するように指示を出した。
 プレゼンテーションは、核心に迫っていた。市場背景から生活者のビヘイビア、メディア、販売促進、一部クリエイティブのプレゼンは終わっていた。
次いで、インターネット担当の橋爪が立ち上がった。
「薮内社長、インターネットを中心にしたデジタル、CS、BS、モバイル分野を担当している橋爪です。二十七歳です。どうぞよろしくお願いいたします。聞くところによりますと、社長も宣伝がお好きのようですね。消費財メーカーの社長でしたら当然のことです。でも、ご自分の感覚を古いとは思いませんか。生活者の情報授受のセンスは大きく変わっています。なぜなら、社長の時代は、テレビや新聞、一部、雑誌全盛の時代でしたから。そのことが、メディアは四媒体という常識が、社長の頭の奥底に残っているのではないですか。」
 橋爪の説明の仕方に前田役員が切れた。
「ちょっと、君。社長に対して失礼な事を言うな。社長は、広告主協会の電波委員会の責任者を長い間、務めてきたのだぞ。その社長に対して、君は無礼じゃないか」
 いきなりに発言にO&Uの若い社員は、眼を潜めた。
「前田役員、ちょっと待ってください。橋爪さんは、社長を攻めているのではなく、時代のメディア環境が変わっている事を言っているのです。わたくしから申すまでもなく、インターネット広告費は、ラジオ広告費を抜き、後、数年先には、雑誌広告費の数字も抜くことは自明の理です。前田役員も広告の世界が長いと思いますが、今までに、従来の四媒体を一角でも崩すようなメディアの登場があったでしょうか。なかったですよね。でも、インターネット広告はそれを変えるのです。メディアの世界が変わったのです。橋爪さんは、その事を言っているのです」
 浅茅和歌子が助け舟を出した。
「いゃ、私もその通りだと思います。前田君、君は、余計な事を言わないで暫く黙っていたまえ。いいね。そこの若い人、続けてくれ給え」
 意に反して、薮内社長は、浅茅和歌子の言葉に素直に従った。それどころか、旧態依然とした前田役員の発言を制した。橋爪と浅茅和歌子の率直な意見に賛同をした。浅茅和歌子は、自分の思う通りの反応を薮内から感じた。
「社長、私は、若い人ではありません。橋爪と申します」
「あぁ、失敬、そうだった。謝る。橋爪君、そんなに怒らないで、その先を頼むよ」
 素直な薮内の態度に、橋爪は恐縮した。
「怒っていません。それよりも、ありがとうございます。インターネットが出てきて、従来のメディアの機能が変わったのです。今までの広告の役割は、どちらかと言うと、コミュニケーションのレベルで考えられてきましたが、インターネットが出てきてからは、それに、心理学的な要素が加わってきました。それは、ヤフーやグーグルなどの検索サイトの登場が、検索、いわゆる調べるとか、比較するとかの行為で、従来のテレビや新聞の広告機能を逸脱するような、形を見せ始めたからなのです。
 現に、比較サイトが氾濫するようになっています。ただ単に、広告を見ただけで自分の行為を決定しているのではありません。そこには、もっと知的レベルの行為があるのです。その事は、まさに、いま、申し上げた事を証明しています。インターネットの世界が、新しい行動のパターンではなく、新しい行為のパターンを生んでいます。なぜなら、行為には、その人の意志が反映されるからです。意志には意味があります。「意味ある意志」これこそが、これからのマーケティングのキーワードになると考えています。短絡的な行動論では解決が出来ない時代になっています。特に、若い人たちにとっては、そうすることが普通なのです」
 橋爪の説明は、時代の気分を反映しているし、若干、哲学的になる部分があったが、新時代のマーケティング論の中に、「意味ある意志」を取り込んだ事は画期的なことだった。この場に出席している年寄り連中は、ただ、黙って聞いているだけだ。先ほど、文句を言った前田役員も口を閉ざしている。経験は知恵を生むが、前田役員の場合は経験だけで終わっているようだ。
 橋爪は続けた。
「薮内社長、御社の役員がいらっしゃる前で失礼かとは思いますが、過去は、どんなに饒舌に、しかも上手に語っても、現在を変える事は出来ません。成功にしろ。失敗にしろ。そういうものなのです。現実のポジションに不安を感じると、人間、昔はどうだった。こうだった。と、経験の一端を増幅して語り始めます。それも、いいでしょう。でも、大事な事は、そのことが、これからの会社の行方にどんな影響を齎すのかなのです。偉そうに、昔を語っても、会社の業績は上がりません。そんなことで、業績が上がるのであれば、社長、御社は、既に一兆円企業ですよ。でも、そんな事はありえないのです。
 世のため、人のために会社が存続していると言う、謙虚な姿勢がなければいけないのです。この会議で発言される御社の、役員の方々の発言を聞けば、自ずから、世のため、人のためになっているかどうかが判かります。今までの発言には、全然、生産的なものはないですよね。どうすれば、社員にやる気が出てくるのか。その結果がどう社会に還元されるのか。そう考える人たちが、薮内社長の周りに集まってこないと、今回のプロジェクトは失敗すると思います」
「おいおい、何て言ったかな。若い人」
「橋爪です」
「今、君の言っている事は、今回のプレゼンには関係ないよ」
 前田役員が、不機嫌そうな態度を取りながら言い放った。周囲には、沈黙の時間が生まれた。明匠側の出席者は、下を向いたままで顔を上げようとはしない。また、あの前田が口を挟んでいる。意味もなく、関係のない事を会議になると言い始める。自分の存在感を示さなければと、決まって発言をする。またもや、気まずい雰囲気が流れた。
「橋爪君、一体、君は何が言いたいのかね」
 薮内がストレートに訊いた。
「はい、大手二社の代理店を入れて、こんなプレゼンをしても何の意味を持たないということです。なぜならば、彼ら二社は、メディアの扱いが取れれば、それだけで十分なのです。極端なことを言えば、今回の新製品の導入が上手くいかなくても、彼らには、関係ないのです。その事を世のため、人のためにというセンスを持ち合わせてはいないのです。会社は公器です。従来からの持ちつ持たれつの関係を切らなければなりません」
「そうは、言っても、企画競争しなければ、このプロジェクトを任せる代理店の選定は出来ないだろう」
「そんな事、解決するのは簡単です。ここ数年の明匠の宣伝を担っている、田尻部長、浅茅課長に素直に任せればいいと思います。そうすれば、無駄な時間も費消しないで済むというものです。ましてや、新製品の導入については、莫大な広告宣伝費を投入します。この費用を生み出す源泉は、社長、御社社員の皆さんの汗だくになって稼いだ利益から供出するのです。それだけに、無駄な使い方は出来ません」 「・・・・・・・・・・・・・・・・」
「テレビ広告とインターネットを有機的に、生活者と如何に結びつけるのか。そうすることによるキャンペーンの仕組み。それが、私たち、O&Uの提案なのです。これから、その提案をさせていただきます」
 橋爪の熱弁は続いていた。明匠の役員にとっては、耳の痛いところを突いている。外部の人間からこうして言われなければ気が付くこともない。大企業病が蔓延しつつあった。  浅茅和歌子は黙って聞いていた。時折、社長を初めとする役員の顔色を見ている。一方、冬来も周囲の反応を見ている。橋爪の予定にない語り口に、殆どの人間が唖然としている。これで、プレゼンになるのか。誰もがそう思ったが、不思議なことに、浅茅和歌子は、これでいいと思っていた。薮内社長の反応はそんなに悪くない。吉越常務も笑って聞いている場面があった。それも、バカにした笑いではなかった。
「社長、プレゼンは、企画やCRなどを提案すれば済むことではありません。責任ある人の周囲でのお祭り騒ぎに、社内外の人たちを如何に巻き込めるかが重要です。その関係が出来れば、新製品の導入は成功したのも同然です。私たちのプランは、そこに的を絞っています」
 橋爪は、少し調子に乗ったかもしれないが、悪びれることなく言い切った。薮内社長は、仕方なさそうに微笑を浮かべ、
「浅茅君、こういうプレゼンは初めてだが、いいのじゃないのかな。若い人、そういうと叱られるから、橋爪君だったな。君の率直な話は、プレゼンとは違うが、私達には良い警鐘になったよ。ありがとう。感謝するよ」
「社長。そんな言い方をしないで下さい。若気の至りです。私の方こそ失礼いたしました。率直に感じた事を申し上げました。次のプランの説明はしなくていいのでしょうか」
 橋爪は、薮内に向かって頭を下げた。
「しなくていいよ、だって、今、君が言ったではないかね。田尻君、浅茅君に任せなさいと。ところで、冬来君、君の部下はいいね。羨ましいよ。わが社にも、礼儀を知りつつ、物言う若い人が欲しいね」
「社長、お褒めの言葉、ありがとうございます。御社の仕事に結びつくようにするのが、私の仕事ですから」
「そうですね。これからも、頼むよ」
「はい、ありがとうございます」
「若い、橋爪君、わが社の浅茅課長もそうだが、冬来君のことも頼んだぞ」
「は、はい。お任せください」
 橋爪は、緊張のためか、上擦りながらも明快に返事を返した。その後で、浅茅和歌子の方に視線を移し軽いウインクを送った。出席者の中で、橋爪の仕草に気がついた人は誰もいなかった。浅茅和歌子は気がつかないような顔をしたが、髪の毛を触りながら笑顔で送り返した。
 一瞬ではあったが、会議室に笑いが充満して、O&Uの理由の分からないプレゼンが終了した。

 冬来は午後七時を過ぎて、京橋の明匠製菓に着いた。受付の守衛さんにIDカードを見せると、八階の宣伝部の部屋に向かった。後の二社のプレゼン内容はどうだったのか。気になって仕方がなかった。しかし、橋爪の突拍子もないプレゼンが薮内社長をはじめ、吉越常務にも届いたようなので、幾分の安心感はあった。
 宣伝部の部屋に行くと、検討会議は終わっているのか、部員たちが席について忙しなく仕事をしている。
「浅茅課長は?」
 と、宣伝部一の気分やさんの米富嬢に聞くと、今日は機嫌がいいのか、冬来の目の前に飛んできた。
「冬来さん、良かったですね。プレゼン、上手くいったそうじゃないですか」
「えぇ、本当? まだ、何も聞いていませんが」
「あら、課長から連絡が行っていないのですか」
「おい、米富。お前、余計な事を言うのじゃないよ。そういう話は、浅茅課長から正式に言うものなのだ。このアホが」
「だって、私、冬来さんのファンなのよ。いい話は、早くお知らせしなければと思ったのよ」
「富ちゃん、ありがとう。君のその優しさに脱帽だよ。今度、食事をご一緒させてください。お願いいたします」
「えっ、本当ですか。冬来さんと食事できるなんて、富ちゃん最高。嬉しい」
 ゴマすり、お富が、冬来の誘いに有頂天になっている。気分がいい時は躁になり天国状態。一変して、鬱状態になると、気分やお富は絶好調。手がつけられないほどに沈み込み地獄の状態になる。そうなると、誰もが敬遠。鬱状態を脱するまで、全員が我慢をするのだ。
「冬来さん、ちょっと待っていてくださいね。課長を探して来ますから」
 喜び勇んで、米富嬢は浅茅課長を探すために、宣伝部の部屋を出て行った。その瞬間、部屋に安堵と静けさが戻ってきた。他の部員は、役員会での、今日のプレゼンの結論を整理して、明日にも、浅茅課長から各代理店に報せるための資料作りに没頭している。三十億円という予算を執行するに際し、開発や技術、生産、営業が、どれだけの汗を流すのか。その事を考えると、無駄な使い方は出来なかった。それだけに、宣伝部としては、今回の代理店選定には神経を使っていた。
 だが、プレゼンが終わってみると、O&U以外の大手二社の企画は、及第点は取れるのだが、従来の枠組みを逸脱するようなアイディアはなかった。それに対して、O&Uは、若い橋爪が、薮内社長の目の前で臆することなく、明匠とO&Uが、浅茅課長、冬来を中心にして、社内外に旋風を巻き起こそうと、した提案が、どうやら、役員会でも支持されたらしい。
「冬来さん、すいません。課長が見つからないのです」
 そう言って、咳き込みながら、米富嬢が帰ってきた。
「富ちゃん、ありがとう。ちゃんと約束をしているから、その内に戻ってきますよ」
 冬来は、米富嬢の肩に手を置いて、感謝の気持ちを述べると、
「冬来さん、待った。ごめんなさいね。社長の部屋にいたもので」
 浅茅和歌子が、米富嬢と、タイミングをずらせて部屋に入ってきた。
「いえ、どうってことないですよ。課長の代わりに富ちゃんが、面倒を見てくれましたから」
「そうなの。米富さん、サンキュウね」
「いぇ、当たり前のことですよ。冬来さんは、課長の大事なパートーナーですから」
「ありがとう。でも、あれでしょう。米富さん、冬来さんに、今日のプレゼンの結果を報告したでしょう」
「あぁ、そんな事していませんよ。極秘のことを簡単に言えるわけ、ありませんから」
「本当かしら。でも、良いのよ。わたくしが、米富さんに、冬来さんがお見えになったら、言ってね。と、頼んだのよね」
「あぁ、そうでした。課長から頼まれたのを忘れていました。でも大丈夫です。私、冬来さんに、ちゃんとお知らせいたしました」
「OK。それで結構よ。それに較べると、他の人たちは気が利かないからね」
 冬来は、浅茅和歌子の気の利いた言葉を聞いて、この人と仕事が出来る人たちは幸せだと思った。気配りと統率力。実に、神経が細やかである。これから、大きな仕事を一緒に出来るのかと考えただけで、武者震いをするような気分になって来る。
「冬来さん、ちょっと、良いかしら。そんなにお時間を取らせません。向うの応接へどうぞ」
 冬来は、浅茅和歌子に促されて、宣伝部の一番奥にある応接室に導かれた。本来であれば、この部屋に通されることは、先ずないのだが、今日は特別のようだ。部屋の中は、浅茅和歌子の趣味なのか、カッシーナで見かけるようなヨーロッパスタイルの家具が並べられている。冬来がソファーに腰掛けると、浅茅和歌子は、おもむろにドアを閉めて、冬来の傍に席を取った。白くて細長い足で姿を作ると、一呼吸おいて、
「冬来さん、今日は、ご苦労様でした。無事に、三社のプレゼンテーションが終わりました。御社の橋爪さんのような、突然のハプニングもありましたが、あれは、あなたの指示なのですか」
「いぇ、間違っても、私から、ああいう指示は出しません。私自身が驚いているのですから。でも、あの時に、私のうろたえる姿を見せるわけにも行かないので、形ばかりではありましたが冷静さを装っていました」
 冬来のチームは、プレゼンの前には必ずリハーサルをする。限られた時間内に全体の枠組みと実施プランを印象付けなればならない。そのために、段取りを決めてリハーサルをするのだ。本番では、橋爪の前までは、当初の予定通り基本計画からメディア、クリエイティブ、セールスプロモーションと順調に進行した。だが、橋爪のプレゼンは、前日のリハーサルにはなかった内容だった。本来であれば、テレビとインターネットのコラボレーションを核にした提案だった。
 あの時、冬来は焦っていた。橋爪のプレゼンは聞きようによっては、失礼なことを言っている。薮内社長は、目くじらを立てることはないが、人気のない前田役員に対しての発言は、田尻部長、浅茅課長が担当窓口でなければ、大変なことになっていただろう。それで、冬来は、冷静さを装って、社長や吉越常務の反応を観ていた。本当に、気が気ではなかった。
「そうだったの?」
「そうですよ。あいつのパフォーマンスは、台本は勿論ですが段取りになかったのですから」
「でも、他の二社のプレゼンは、全然代わり映えのしないプランだったわよ。社長も聞いていて、退屈な表情を見せていたわ」
 冬来は、何も知らなかった。実は、橋爪にプレゼンの場で、ああいう言い方をしなさいと命令したのは、浅茅和歌子だった。薮内の性格からして、ダラダラとした会議は性に合わない。結論をはっきりさせ、イメージがしっかりと伝われば、多少の齟齬を来たしても、殆ど問題にはならなかった。それよりも、形式至上主義で、なにを結論にしたいのか、どんな事をイメージしているのかが伝わらない内容では、どんなに美辞麗句を並べても、承認されることはなかった。
 浅茅和歌子は、薮内のそんな性分を弁えて、わざと、橋爪にそういうプレゼンをさせたのだ。この事は、浅茅和歌子と橋爪二人だけの秘密だった。冬来が知らないという事は、橋爪は、冬来には話していないと言うことだ。万が一、薮内が納得しない場合もあるわけだが、その場合は、自分なりに、O&Uへの仕事の発注の中味は考えていた。だが、薮内は思ったとおりの反応をしてくれた。これなら、後の仕事が進めやすくなる。メインの代理店をO&Uにして、あとの二社には、別の手当てをすればよい。
 冬来には、今の事を敢えて言う必要はない。浅茅和歌子と橋爪二人の秘密である。
「冬来さん、正式には、明日、明匠の意志をお伝えしようかと思ったのですが、富ちゃんからの報告の通り、今回の新製品のメイン代理店は御社にお願いすることにいたしました。予算、三十億円のうち、お宅には、八割を預けます。残りは、あとの二社にお願いすることにいたしました。よかったわね」
「課長、ありがとうございます。チームの皆が喜びます。八割と言う予算も嬉しいですが、それよりも、このプロジェクトに参加できる。それも、メインでお手伝いできることが、本当に嬉しいのです」
「期待しています。頑張ってください」
「はい、一生懸命やらせていただきます。」
 冬来は、こみ上げてくる嬉しさを隠そうともしないで、顔をクシャクシャにしながら、盛んに頭を下げていた。
「冬来さん」
 ここで、浅茅和歌子の態度が急に改まった。窓辺に寄りかかりながら、
「ただ、一つ条件があるの。テレビのコマーシャルの件ね。もう一度、仕切り直しになるわ」
「アイディアが悪かったのですか」
「ううん。勿論、制作は御社にお任せするけれども、わたくしの懇意にしているCFプロダクションを参加させたいの」
「えぇ、それは、構わないですが、うちのプロデューサーにも、当然、話さないといけませんね」
「そりゃ、そうよね。彼、何て言ったかしら。テレビの・・・・・・?」
「天貝ですか」
「あぁ、そうだったわね。彼に、冬来さんから話していただけます。」
「分かりました。この件は私が、責任を持って仕切るようにいたします」
「お願いするわ。一度、天貝さんとお会いしたいわね」
「了解です。来週にでも、その機会を作らせていただきます」
「よろしくお願いするわね」
 そう言うと、浅茅和歌子は、ドアを開けて、それぞれの仕事に取り組んでいる広告部員に声をかけた。皆の視線が一斉に浅茅和歌子のほうに向けられると、
「プレゼンも終わったことだし、皆で食事に行きましょう。焼肉の叙々苑で、いいかしら。ご馳走するわ。どう」
(行きましょう。いいですね。本当ですか)
 思い思いの言葉が、部員から発せられると、
「冬来さん、あなたも、よろしかったらどうぞ」
 と、浅茅和歌子の甘い声に冬来も誘われた。ここ数年低迷を続けてきた、O&Uが浮上する契機が、どうやらやって来たようだ。冬来は、会社で待っている白木に電話を入れると、プロダクトチーム全員に浅茅和歌子からの伝言を伝えるように、弾むような明るい声で言い終えた。


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