HOME > エブリディ・ラーニング > 小説 > 2週目


「映像の逆訴」


〜3〜

「お母さん、いる」
「いるわよ。何か」
「どうして、起こしてくれなかったの」
 由美子が、あわてて二階から駆け下りてきた。
「あら、いつもは言うのに、昨日は、何も言わなかったしょう。だから、良いのかと思ったのよ」 
 母親の幸恵が応えると、
「だって、今日は休みじゃないでしょうに。金曜日よ」
 由美子は、そう言いながら洗面所に行った。カリオロジーのサンスターDO歯を磨いた後、出掛ける仕度をし始める。
「ごめんなさいね。これからは気をつけるから」
 幸恵は、舌をベロ、と出して言った。
「それよりも、お父さん、どうしたの。昨日、帰ってこなかったでしょう」
「あら、由美チャンに言わなかったかしら。お父さん、仙台に行ったのよ」
「えぇ、本当?知らなかった」
「何か、急用が出来たみたいで、二日間の予定で行ったわよ」
 由美子の父親の古屋謙次郎は、突然、仙台に行くと、言って家を出た。あまりに急だったので幸恵が理由を聞いたが、謙次郎は何も答えずに、自分で仕度をすると、そくさくとして出掛けた。
「で、何時帰ってくるの?」
「あら、いやだ。昨日、帰る筈なのに、どうしたのかしら」
「連絡は、あったの?」
「ないわよ。私にしてみれば、二日も三日も同じだから、そんなに気に留めなかったのね。それにしても、言われて見れば、あんなに几帳面なお父さんが、何の連絡もしないなんて、確かに可笑しいわね」
「そうでしょう。携帯に、連絡を入れたら」
 幸恵は、こっくりと肯くと、
「そうね、後で、入れておくわ。それよりも、あなた、そんなことしていると、会社、遅刻するわよ。それに、ちょっと風邪気味よね。気をつけて」
「はいはい。あぁ、大変。遅刻しちゃう。行って来ます」
 そう言って、古屋由美子は家を飛び出した。大学を卒業して二年目。今では、一端の営業マンである。日本橋にあるMブックセンターに勤めている。千葉県の柏からは、ドア・ツウ・ドアで、丁度一時間だ。朝のラッシュに揉まれながらも仕事が面白いのか、その込み具合を楽しみながら生き生きとした表情で会社に行っている。だが、今日の様子はいつもとは違って少し可笑しい。顔色も悪いし、動きも鈍くなっている。母親が言ったとおり、風邪をひいたのかもしれなかった。
 電車の揺れが気分を悪くするが、そのことよりも父親のことが心配だった。何の連絡もよこさない。何か普通でないものを思い浮かべてしまう。母親が言うとおり、あんな几帳面の父親にしては珍しいことだ。こんなことが過去になかっただけに、余計に胸騒ぎを覚えた。それに、母にも細かい事を告げずに出掛けたことも意外だった。普段であれば、前もってキチンと報告するはずである。それが、急に思い立ったような動きだ。どう考えても可笑しい。考えれば考えるほど、不可解に思ってしまう。
 江戸川を渡る時に、鉄橋越しに北の方を見ると川面の先に筑波山が霞んで見える。いつもと同じ姿を見せているのだが、由美子にとっては、小さな塊のように見えた。
 大手町駅に着くと、東西線に乗り換える。駅員のアナウンスだけが響く中を人の流れが無言のまま続く。由美子が思い悩むことなど誰一人として知るよしもない。
 気分が優れないまま会社についた。自席に座り深く深呼吸をして、水をグッと一気に飲んだ。成り行きを見て具合が悪くなったら、七階にある医務室に行けばいいのだ。さあ、仕事。古屋由美子が席に付くと、辺りが急に明るくなる。ちょっと、体調が悪くてこのレベルである。万全の体調だったら、どうなるのか。
 若い女性の一挙手一投足が、社内の雰囲気を変えるし、部内の有様までも変えてしまう。男は、由美子にいいところを見せようと頑張るし、同僚の女性は、由美子に負けまいと一生懸命になる。部内の展開が、とにかく由美子を中心にして回っている。無意識での行為の強みなのか、ケレン味のない態度が、多くの人たちに支持されている。
 由美子は、昼食を摂らずに、身体を労わろうと応接室で休んでいた。が、どうにもこうにも、体調の悪さに我慢が出来なくなって、七階の医務室に向かった。エレベーターの中にいても、サービス精神が旺盛のせいか周りの人たちに気を使う。何事もないように振舞った。同期の男の子。先輩の女子社員。頭の禿げ上がった部長や役員。皆に、愛想良く対応している。傍から見ていると、神経の使いすぎのような感じがするぐらいだ。だが、これが、由美子の真骨頂なのだ。誰にも不快感を与えない、営業、古屋由美子の生き様なのだ。
 毎日が、そんな生活の連続であるから、目に見えないストレスも感じているはずである。気が張っている時はいいが、ちょっとした緩みが出ると、その瞬間に肉体に異常を感じるようになる。入社したばかりの時には、何回か、そんな経験をしたが、時の流れが、由美子を強靭にしている。耐える力を植えつけた。また、傍らでそれを助けてくれたのが、医務室のドクター高島宏先生だった。
 高島宏先生は、日本でも有数の心身医学の泰斗である。最近では、パニック障害と呼ぶのが当たり前になっているが、以前は、不安神経症、心臓神経症、あるいは、自律神経失調症と呼んで、不定愁訴症候群治療の専門医でもあるし、心電図の読み取りのエキスパートでもあった。家庭医についてのゼネナリストでもあった。
「先生、風邪をひいたみたいです。お薬、いただけますか?」
 由美子は、エレベーターホールの奥にある医務室に入るや否や、言い放った。白衣を身に着けない医者で有名な高島先生は、奥の診察室から出てくると、
「おっ、由美君、久し振りだね。どうかしたのかね?」
「えぇ、どうやら、風邪をひいたみたいです。お薬をいただけますか」
 と、勝手に自己診断をして、傍のソファに腰を下ろした。
「ほぉ、由美ちゃんも、偉くなったものだね。何時から、医者になったのだね」
 高島先生の白のワイシャツにブルーのネクタイ姿は、どう見てもお医者さんの格好ではない。サラリーマンの部長のような有様だ。
「先生、冗談を言わないで下さい。本当に悪いのですから」
 いかにも、具合が悪いような表情を見せた。
「具合が悪いと言ったって。別に死ぬわけではないのだから」
「先生、死ぬような病気じゃないのは当たり前ですよ。こんなに、ピンピンしているのですから」
「よかった。由美君も元気じゃないか。」
 先生は、明るい調子で言った。
 由美子は、顔を膨らませて、
「先生、いい加減にして下さい。私、苦しんでいるのですよ」
「それじゃ、ここで、もっと苦しんでご覧。本当に、苦しいのだったら、先生が、助けましょう。どう」
「そんな事、急に言われても、苦しくなることなんて出来ませんよ」
「そうだろう。だったら、クリネックスティッシュで洟をかんで、部屋に戻ったらいいよ。そんなに、心配する状態じゃないから。安心しなさい」
 いとも、簡単に、由美子に言う。
 高島先生は、テレビの健康番組にも出演しているし、新聞や雑誌の健康コラム欄にも執筆している。病気以前の状態を勝手に病気と決めて、薬を求める人がいる。そういう人たちに対して、病気や病人の定義をキチンと教え、今がどういう状態にあるのかを認識させる。まず、問診に充分時間をかける。その上で、必要であれば検査をする。むやみやたらに、レントゲン検査などはしない。薬も直ぐには出さず、二,三日の経過を見てから処方をする。だから、由美子にもティッシュを渡したのだ。
「また、そんな事言って。肺炎にでもなったらどうするのですか」
「へぇ、肺炎になりたいのだ。自分からなりたいと希望するなんて、随分、奇特な人が居るものですね」
「肺炎になったらどうするのですか。私、死んじゃうかも知れない」
「バカな事、言っちゃいけないよ。美人薄命って、昔から言うでしょう。美人が早く死ぬの。そうじゃない人は、早く死なないの。いい、分かった。由美君は大丈夫。若死にはしないから。どっちかと言うと、長生きをするのじゃないの」
 先生は、暗に美人じゃないみたいな言い方をした。確かにそうだ。美人の定義が難しいが、由美子は、客観的に見ても美人と言うよりは、男好きのするコケテッシュな魅力を持った女だった。
「あぁ、先生って失礼なのだから。と言う事は、私は、美人じゃないって言うことになりますよね」
「よく、分かっているね。その通り。由美君、君ぐらいの年で、美人と言われるのと、可愛いと言われるのと、どちらが良いと思う。先生は、後者だね。言っておくけど、美人なんて何の魅力もないよ。ただ奇麗なだけさ。それからすると、由美君には魅力がある。本当に可愛いのだから」
「あら、先生。上手いこと言っちゃって。本当に憎いね」
「ところで、身体の調子はどうかね。今の先生の言葉を聞いて、急に具合がよくなったみたいだね。」
「そんな急に良くなる筈ないじゃないですか。薬も飲んでいないのに」
 由美子は、フン、薮医者がなによ。と、思ったのだが、言われて見れば、医務室に来た時よりは、確かに気分がよくなっている。
「先生の診るところ、今の由美君は、ちょっと疲れているのだろう。今日は、早く帰って休んだ方がいいね。そうすれば明日には、元気になるよ」
「本当?」
「あぁ、本当さ。先生が保障するよ」
 と、由美子を安心させるような言い方をした後で、
「それよりも由美君。何か、他に心配事があるのと違う」
 高島先生は、由美子の不意をついたように目線を合わせながら言った。由美子は、心を覗かれたように一瞬躊躇いの表情を見せたが、今朝の母親との会話のやり取りを思い出した。あんなに几帳面な父親が、何の連絡をしないでいるなんて信じられなかった。実は、会社への電車の中でも、父親の事を考えていた。今まで、年に何回かの出張はあったが、殆どが日帰りであった。今回のように、泊まりがけは珍しかった。
 古屋謙次郎は不動産業を仕事していた。上野と御徒町の中間、東上野に店を構えている。商売のエリアは、東京の北側を中心に、千葉、埼玉、茨城を網羅して、主に、戸建・マンションの仲介と、新築販売を業としている。それだけに、泊まりがけの出張などは考えられなかった。どんなに忙しくても、一日あれば、すべての作業は終わる。仕事上で泊まる必要は全くないのだ。バブルの時代ならいざ知らず、今では、業界人の旅行会などはありやしない。そんな余裕などないのが業界の常識だ。
 それに、由美子が知る限り、父親の仕事は順調なようだ。社員も十人を数え、こんなご時世にあるが年々伸びている。地域の不動産屋さんとも、いい呼吸感で仕事が出来ている。謙次郎の得意先に対する気の遣いようは、周辺の商売人にも真似が出来ないほどサービスが行き届いている。家庭的にも、夫婦仲もそんなに悪くない。妻の治美との間も相思相愛。お互いに不満などありやしない。傍目から見ていても理想のカップルである。
 そんな父親が、出張と言って仙台に行ったことが、由美子には、なんとも理解が出来なかった。仕事で東北、それも仙台にチャンスがあるなんて信じられなかった。その一部始終を高島先生に話すと、先生も謙次郎を良く知っているだけに、由美子の言った事を真正面から受け止めた。
「そうか、そういうことがあったのか。謙次郎さんが、そんな動きをするなんて珍しいことですね。きっと、緊急な仕事上の用事があったのですかね」
 そう言いながら、推理マニアの感覚が首を擡げ始めつつあった。
「でも、先生。緊急な仕事が仙台に発生するなんて考えられません。だって、父の仕事の商圏は関東ですよ。上野で仕事を始めて二十五年になりますけど、そんな話、訊いた事ありません」
 由美子の常識的な判断が続くと、
「ちょっと待ってよ。由美君は何歳になったのかね」
「あらいやだ。女性に年を聞くなんて、ヤボな先生」
「アホな事を言っているのじゃないよ」
「去年、会社に入りましたから、二十三歳です」
「そうか。その二十三歳の女の子が、二十五年前のことなど、知るはずがないでしょうに」
 と、敢えて皮肉を交えて言うと、
「先生、年じゃないのです。私は、もしかしたら、行く行くは古屋不動産の社長になるかも知れないわよ。従いまして、父親の行動は、母のお腹の中にいる時から観察していました。なんでも、知っているのです。父の事は」
 剥きになって言い返す。
「なんでも知っていると言う割には、今回の件については由美君の思惑を外れているみたいだね」
「先生、そんな言い方しないで下さい。その思惑を外れているからこそ、私は、心配をしているのです。父の発する電波を受信できない自分に、もどかしさを感じているのです」
「由美君、君の不安は二つあるのだね」
「二つ?いえ、一つしかありません」
「集約すると一つなのだが。いいかね。由美君が言った言葉が大事なのだよ」
「えっ、それって何ですか。」
「じゃ、説明しようかね。由美君の言った言葉の重要なポイントの一つは、父親からの電波を受信できないと言うことだよ」
「先生、そんな抽象的な言い方しないで、はっきり言ってください」
「由美君は、謙次郎さんが柏の家にいる時から、既に、電波を受信していなかったのではないかね」
「それって、どういうことですか?」
「由美君は、謙次郎さんの行動の全てを常に知っている。そういう自信があるから、今回の謙次郎さんの件については、事前に父親の電波を受信しなくても可笑しくないと思っていたのだよ。なぜなら、常に受信状態が正常に作用しているものと思っているから、あらためて、スイッチを入れなくても良かったのでね。だが、今日になって、帰ってこない事を知って、受信回路の一部に不都合が生じていることに気がついたのかな。それも、あんなに几帳面な謙次郎さんからの連絡がないため、余計に心配になったのだな」
「そうですよ。その通りです」
 高島先生が、余りに、的を得た指摘をしたので、由美子は、驚きを感じながらも、次の言葉を待つことになった。
「もう一つは、由美君」
 高島先生は、そう言って一呼吸を置いた。傍にいた看護士さんを遠ざけると、
「由美君、大事な事は、いま、あなたが電波を感じないと言うことに問題があるのだよ」
「・・・・・・・・・・」
「今、何にも感じないのだろう。なにか、感じるかい。スイッチはオンになっているのに」
「先生、私、何にも父からの電波を感じないの」
「だから、それが問題なのだよ」
「先生、それってどう言う意味ですか」
 由美子は、先生が何を言いたいのか、まだ、理解が出来ていなかった。
「由美君、落ち着いて聞くのだよ。これは、飽くまでも先生の勘だからね。いいね」
「はい。先生の思っている事を言ってください」
 由美子は、まだ、高島先生が、何を言いたいのか理解できていないようだった。高島先生の顔に苦渋が浮かんでいた。青筋が際立って見えてくる。由美子にここまで言っていいのか。躊躇いの気持ちが高島先生の白い顔を、より一層強調するようになっている。
「由美君、気を引き締めて聞きなさい。いいね」
「はい」
「もしかすると、スイッチ・オンの由美君が、電波を受信できないのではなく、謙次郎さんは、もう既に、電波を発していないかも知れない」
 高島先生は、自分の勘を信じて、そう言い切った。あの古屋謙次郎の行動は、どう考えても異常だ。長い付き合いの中に、由美子から聞いたような事は、今までに経験したことがない。それだけに、何か不吉な予感がしたのだ。
 由美子は、先生が何を言いたいのかを、漸く理解した。

「先生。・・・・・・・・・・・・・。そんな」
 由美子は、先生の顔を直視して何の言葉も発しなかった。先生は、古屋謙次郎を良く知っていただけに、今回のような出来事は、古屋謙次郎に余程、大変な事が起きたに違いないと思った。由美子は、過呼吸みたいな症状を見せて、息苦しい表情を高島先生に浴びせた。診察室は重苦しい空気に包まれた。


〜4〜

 その日の夕方、早々に、本富士署に「根津神社殺人事件」の捜査本部が置かれた。本富士警察署は、東京の北より文京区の南東部を管轄している。管内の二十%を占める東京大学をはじめ、東京医科歯科大学、東京順天堂大学と医科系の大学を中心にした付属病院や、医療機器関連の製造販売会社が集中している。一方で、今回の事件があった根津神社の他に、学問の神様で有名な菅原道真公を奉っている湯島天神が、さらに昌平橋には、神田明神、神田祭りで有名な神田神社があり、下町の雰囲気の中にも学問の香りと、粋の気質をも残している。
 捜査本部での会議が始まった。今回の捜査の指揮は、捜査一課、刑事課長の清澄警部が取る事になった。本富士署の管内での殺人事件は、本当に久し振りだった。六年前に暴力団同士の抗争で一人が死んだことがあった。その後は、四年前の強盗殺人事件で、やはり一人が死んでいる。それ以来のことである。
 被害者の発見後、鑑識は死因の確定を。その他の刑事はそれぞれの班に分かれて、近辺の聞き込みと目撃者の洗い出し。被害者の遺留品、その他からの身元の確認。など、一斉に自分の持分に従って走り出した。
 清澄警部が、簡単に挨拶をすると、それぞれの役割にしたがって構成された、各班から報告がされた。
 鑑識の調べによると、その男の死因は窒息死だった。どうやら、紐による絞殺らしい。索状痕がクッキリと残っている。死後、七時間程度経っていることから、死亡時刻は、昨夜の十一時前後と考えられた。直近の時間である。
一方、池之端から日本医科大学周辺、それに東京大学までに範囲を広げての聞きこみや目撃者探しを徹底したが、根津神社周辺の九月十六日の夜から明け方にかけての、被害者の状況を知るような手懸りはなかった。それもその筈である。夜の十時を過ぎると、表通りはともかく裏通りの人出は極端に少なくなる。時折、不忍池の方から来るアベックが行き交う程度である。
 昼間の工事の騒音も夜間には静まり返る。あの時間を犯行の時間にする犯人は、地元の事を良く知っている人間だ。特に、つつじ丘は閉鎖されている。つまり、根津神社の中で、人の行き交う場が消失していることと同じである。夜間の人通りが極端に少なくなる。と言うことは、夜の根津神社は、ある瞬間には公開の密室状態になることもあるのだ。殺人事件が起きたその日は、丁度そんなタイミングにあったのかも知れなかった。
 当然、被害者の発見場所周辺を隈なく捜索した。通常であれば、絞殺時に、苦し紛れにつつじの一本や二本が折れていても可笑しくないのだが、争った様子は見られなかった。
 それに、根津神社に来るためには、東京メトロ千代田線の千駄木駅か根津駅から五,六分である。南北線ならば、駒込駅から十五分から二十分。それぞれの駅周辺でも、聞き込みをしたが手懸りはなかった。後はタクシーである。東京都内のタクシー会社にも十一時前後の、根津神社近辺での乗降客のチェックをしたが、特に、目ぼしい情報はなかった。
「おいおい、あなた達は、被害者の気持ちになったことがあるのか。亡くなってから、六、七時間しか経ってないのだぞ。お前さんたちの報告を聞いていると、何の手懸りもないじゃないか。そんなことで、仏様に対して申し訳ないと思わないのかね」
 とうとう、業を煮やして清澄警部が言うと、一番若い長谷川刑事が、
「課長、仏様の身元を明かす物証は何もないのですが、唯一つ、京都の喫茶店らしい店の領収書が、ポケットから出てきました」
「それで?」
「日付は、九月十五日になっています」
「と、言う事は、仏さんが発見される前の日じゃないか。」
「そうなのです。被害者は、前の日、京都にいたのではないでしょうか」
「京都か。まだ、暑いだろうな。それで、そのレシートの中味は?」
「いや、コーヒーの二人分。七百六十円です。店の名前は『左京』。市外局番は〇七五ですね。この名前は、多分、京都市の左京区から取っているのでしょう。そうなると、南禅寺の周辺かも知れませんね」
「判った。その他には?」
「はい、まだ、あるのですが」
「なんだよ、長谷川」
と、城之崎が訊くと、
「その領収書の裏に、カタカナでウコンの後ろと書かれているのです」
「ウコンの後ろ?」
「えぇ、ウコンの後ろです。これって、なんですかね。もしかして、ダイングメッセージですかね」
「ダイングメッセージ?ウコンの後ろがぁ?」
 清澄課長は、頭を抱えるような仕草を見せた。 「課長、ウコンって、健康増進に役立つ、沖縄のあのウコンではないのですかね」
「君に言われなくても、俺だってそのぐらいの事は知っているよ。ウコンねぇ」
 清澄は、もう一度繰り返した。
 ここのところの健康ブームは異常である。猫も杓子も健康、健康と騒いでいる。身体の一部に不調を来たすと、直ぐに医者だ。薬だ。サプリメントだ。マスコミも調子に乗って、番組やコラムで特集を組む。そんなのをまともに聞いていたら、一億総病人になってしまう。完璧な健康なんてありやしない。大事な事は、何が出来るかである。たとえ、病気を持っていても、いちにち一日が充実した人生を送ることが大切なのだ。健康でなければ出来ないわけではない。そんな中で、「ウコン」がブームになっている。もともと、インドが原産でショウガ科の多年草植物。高温多湿を好み、土中に出来る根茎を食用や薬用にする。日本では、沖縄や鹿児島に自生している。春ウコン、秋ウコン、ガジュツの三種類がある。主なる効用は、肝機能改善・発がん予防・胆汁の分泌促進、今流行の抗酸化作用・殺菌作用・動脈硬化の予防などで、生活習慣に関連して利用されている。
 領収書の裏に書かれているウコンが、本当に植物のウコンを指しているのか。もしそうだとしたら、それは、何を意味しているのか。それとも、ダイングメッセージなのか?仮に、そうだとすると、何を知らせようとしているのだろうか。余りにも、単純すぎる。
 清澄は、頭を抱えざるを得なかった。
「他の報告はないのか。これだけなのか」
「課長、警察庁を通して、各都道府県の捜索依頼人が、あるかどうかのリストを紹介いたしましたが、それらしき男の依頼はないようです」
「身元不明人はいないのか」
「その年令に合うような男はいないとの事です」
「だが、それも、昨日現在の捜索人の以来だろう。再度の紹介を頼むぞ。早く、仏様の身元を明らかにしないと、浮かばれないからな。」
「そうですよ。仏様の家族も心配しているでしょう」
「だから、言っているのだよ、君たちに。俺たちの役割を、改めて考えてくれよ。殺人を犯した奴を野放しには出来ない。どんな事情があったかは知らないが、人を殺める事を許してはいけないのだと。いいか。どんなことがあっても、この事件は解決する。頼むから、仏様の身元を早く特定してくれよ。そうじゃなきゃ、仏様も成仏が出来ないぞ。いいな。それから、長谷川と城之崎は、京都に行ってくれ。喫茶店の方は任せるぞ」 

 そろそろ、薮内社長からお呼びが掛かるのではないかと思っていたところに、
(浅茅課長、薮内社長がお呼びです。)
 秘書課の林さんから電話で連絡が入った。新製品を導入して一ヵ月半が過ぎた。ちょうど、新製品の配下状況と売れ行きのチェックをしていたところだった。今の所、荷捌きは順調で、当初の予想の三割アップとなっている。薮内は、当然、日々の報告を聞いている筈だが、浅茅和歌子から直接、現在の状況とこれからの見通しを訊きたかったのだ。 
 社長室に行く間に、経理部長や課長とすれ違った。彼らも社長に呼ばれていたらしい。表情が緩んでいるところを見ると社長の機嫌は良い様だ。それもその筈である。業界や市場での新製品の評判が頗る良いので、薮内にして見れば、嬉しさのあまり赤ら顔の頬が緩んでいる筈だ。これまでの外国製品に奪われたマーケットをどの程度奪回できるのか。実際の勝負は、来年二月のバレンタインディだが、今の調子で行けば可なりの売りが期待できる。このままの、ブランドイメージを確立するために、もう少し広告・販促に予算を投入して、一気に浸透と定着を図らねばならない。その話も社長としたかったので、返ってタイミングが良かった。
 身だしなみを整えて、ドアをノックすると、
「おう、どうぞ、入って」
と、部屋の中から元気の良い声が飛び出してくる。
「失礼いたします。社長、お呼びですか」
 と、声をかけながら中へ入ると、少し肥りぎみ薮内は、椅子から立ち上がり浅茅和歌子を手招きで自分の前に呼んだ。クーラーが程よく効いているし、空気の清浄状態も良い様だ。
「いや、新製品のことも気になっているが、あのプレゼン以来、君も忙しかったせいかゆっくりと話が出来なかったので、どうかなと思っていたのだよ」
「お心遣い、ありがとうございます。新製品の発表会から全国を回っていましたので、わたくしも気になっておりましたが、なかなか、お会いできる時間がありませんでした」
 浅茅和歌子は、デスクを挟んで薮内の前に立つと、軽く頭を下げながら言うと、
「浅茅君、少し若くなったような感じがするね。何か良い事でもあったのかね。」
「いいぇ、そんな事ございません。もしあるとすれば、新製品の『WAKA』が順調な滑り出しを見せているからですわ」
「そうか。それはそうだ。君が、『WAKA』のコンセプトやネーミングを決めたのだから、心配をするのは当然だな。言って見れば、君が産み落とした子供と一緒だからな」
「いいえ、決めたのは、新製品開発のチームの皆さんです。わたくしは、それを追認しただけですから。でも、『WAKA』は、私の子供と思っています。それだけに愛情を注いでいます。育てていくのは、わたくしの責任とも感じています」
 浅茅和歌子は、ソファに深々と腰を下ろすと両足を組んだ。ゆったりした動作だ。薮内は視線を遊ばせると反対側のソファに座った。こうして、社長室で二人きりで話すのも本当に久し振りのことであった。浅茅和歌子は、なるべく、社長室には来ないようにしていた。というのも、三年前に広告宣伝課長の辞令を受け取ったときの社内の反応は凄まじかった。
 薮内が、当時の吉越常務や田尻課長に何の相談もなく、どこの馬の骨なのか牛の骨なのか判らない、浅茅和歌子を抜擢したものだから、社員の関心は、まるで週刊誌。薮内との関係を詮索し始めた。浅茅和歌子は、人間の本質は、どうせ野次馬。興味本位の輩に付き合って入られないと、別に意にすることもなく、ただ、淡々と、自分の役割で仕事をしてきた。そんな経験があつたので、社長室に行くことには躊躇いがあった。
「浅茅君のワンブランド・マルチ製品戦略が上手く行った様だ。問屋さんにも小売店さんにも、ましてや、生活者の皆さんにも見事に受け入れられた。こんなこと、ここ数年の菓子業界にはなかったことだ。それだけに、画期的な出来事として業界の誰もが注目をしている。それに、わが社の株価も三割アップ。株主様にも顔向けができると言うものだ」
 薮内は、そう言って、浅茅和歌子に握手を求めた。どうしたものかとは思ったが、そっと右手を出すと、薮内は両手で包み込むようにして、力を込めて握ってきた。
 明匠の業績は、健康志向の強い人向けの特保製品がヒットしていたので、競合他社に較べれば、まだ良い方であった。それとて、浅茅和歌子がプランニングして、O&Uに任せたものだった。だが、それだけでは、安心できるような状況ではなかった。スローカーブの売り上げ曲線を、鋭角的に立ち上がる直線にしなければならない。そのためには、どうしても、年商で二百億円を超えるような製品が欲しかったのだ。
 浅茅和歌子が、広告宣伝課長になって三年。その間、彼女の様子には鬼気迫るものがあり一心不乱に仕事に取り組んでいた。朝も、八時には出社し、夜は、早くて九時、遅いときは十時、十一時はざらだった。社内では、仏の田尻部長、鬼の浅茅課長との評判が立つほど、厳しい面を持っていた。彼女のプランする製品や広告キャンペーン、テレビ広告は、ことごとく成功を収めていた。明匠のイメージは一新されていた。好感度もうなぎ登り。企画・生産から広告・営業までの動きが連関していた。その動きを薮内は見逃さなかった。類まれなる才能とツキを持っている浅茅和歌子に明匠の将来を託してみようと、新製品開発のプロジェクトリーダーに据えたのである。
 浅茅和歌子は、製品開発とコミュニケーションの効率化を図るために、ワンブランド・マルチ製品の戦略を採用することにした。一つは、チョコレート。二つ目はケーキ。そして、三つ目はクッキー。さらに、最後四つ目はソフトドリンクである。明匠の歴史的なリソースをもう一度復活させて社員が自信を持てるようにしたのである。チーム構成は、企画・技術・生産、営業、広報、そして、宣伝からメンバーを募った。明匠の精鋭が揃った。リーダーは浅茅和歌子が担当したが、実際は、企画の長澤が担った。
 責任感と統率力が物を言う。ストレスを感じても、ちょっとした躓きがあっても逃げない胆力。上司にも媚びず、只管、チーム力を維持できる資質。長澤は、三十を過ぎたばかりだが、その役に打ってつけだった。
 ブランド名は、『WAKA』に決まった。平仮名だと『わか』。漢字にする『和歌』か。偶然にも、浅茅和歌子の名前と一致していた。別に、浅茅和歌子の意向があったわけではなかった。が、決まってみると、メンバーが気を使ったとしか考えられなかった。
 だが、選ばれた理由は、こうだった。老若男女の古への憧れ。特に、若い女性の京都、奈良、そして、鎌倉への古都探訪は、年々数を増やしている。現代文明への反逆なのか、日本文化への回帰や、自然に対する畏敬の念が沸々と沸き起こりつつある。その表現として三十一文字に想いを込める輩が出てきている。古人の精神文化が見直されている。ならぬ恋に想いを馳せ、季節の移り変わりに自然を感じる。万葉集や古今和歌集、新古今もあれば千載和歌集もある。そして、最も一般的なものが百人一首だ。そう、『和歌』。これをテーマにして製品の開発を行うことになった。ブランド名も『和歌』そのものを横文字にした。『WAKA』がそれであった。
 この『WAKA』をアンブレラにして、チョコレート、ケーキ、クッキー、そして、ソフトドリンクの展開が秋から始まった。二ヶ月間で、全国にテレビスポットを五千%。金額にすると、一%のコストを十六万円として八億円。それに、新聞の全国紙やブロック紙、地方紙に約四億円。雑誌に一億五千万円。インターネット広告費に一億五千万円。締めて、十五億円の広告費。その上に、コマーシャルなどの制作費にも一億五千万円をかけているので、当初予定した予算の半分以上を、この二ヶ月間に出稿していた。
 薮内は、浅茅和歌子から、一通りの報告を受けた後、
「浅茅君、『WAKA』は、このままで行くと、年間の売り上げは三百億円を超えるかもしれないぞ。大ヒットだ」
「そうですね。今のところ順調ですので多分そうなると思います。ヒットの理由は、製品群の差別性も効いていますが、それに加えて、テレビコマーシャルが当たりました。レトロ感ある風景に中に、タレントの君和田 亜衣の演技の巧みさ。完全に、消費者の心をつかみました。また、『WAKA』をイメージさせるための、三十一文字を使った、コピーの展開も上手く行きました。
 この後は、一つだけ気になることがあります。来年のバレンタインディがどうなるかですね。外国品も強烈なキャンペーンを打ってくるでしょうし、日本のメーカーも黙ってはいないと思います。ですが、その対抗策は既に考えておりますから、ご心配は要りません。それに、スイーツブームの一歩先を行くと、不安になると思われますので、わたくし達は、半歩先のテイストを前提に考えております」
 浅茅和歌子は、薮内に、先行きの心配感を与えないように慎重な言い回しで説明した。
「以上なような理由で、これから先の他社の動向次第では、もう少し予算を使わせて頂きますが、社長、よろしいでしょうか」
 浅茅和歌子は、控えめな態度で金額の修正を願い出た。薮内は、売り上げ数字が見込まれることから、
「あぁ、いいとも。経理の岡田君に言っておくよ」
「社長、岡田さんに行っても駄目です。あの方は、融通も利かないし、仕事を知らないですから。ですから、無駄な事はしないで頂きたいのです」
「だが、一応は、経理担当の岡田君に言わない訳にはいかないだろう」
「それよりも、例えば、当初の予算三十億円を四十億円にするからと、一方的に、社長が仰っていただければ、それで全てが済みます。わたくしが行って説明しても、ああでもない、こうでもないと、重箱の隅を突付くような態度をとるだけです。根拠は、吉越常務から報告させると、言って下されば、わたくしの方から常務に経緯を報告させていただきます」
「判った。そうしよう。それで良いのだな。ところで、増やした予算は何に使うのかね」
「はい。今までの活動で、リーチは十分に広がっていると思っています。贔屓目に見ても、殆どの人たちは『WAKA』の広告に出会っています。これからは、放送のテレビ番組と、通信のインターネットのコラボレーションを進めて、明匠ならでわのコミュニケーションをいたしたいと考えております」
「うん。そうか。頼むよ」
「はい、ありがとうございます。チーム全員に成り代わって御礼を申し上げます」
 薮内は、うん、うん、と肯いた後で、
「ところで、浅茅君。君は、まだ、和歌を続けているのかね?」
 浅茅和歌子は、立ち上がりかけた身体を、もう一度、ソファに沈めた。薮内の不意をついた質問に、一呼吸置いた。
「社長、今はそれ何処ではありません。『WAKA』のことで頭が一杯ですから」
「そうか、お休み中か」
「はい。一段落しましたら、復帰いたしますわ」
「あぁ、そうしたらいいよ」
「その時には、社長に真っ先に、ご覧に入れます」
 浅茅和歌子は、そっと立つと、微笑を薮内に返しドアに向かった。

 薮内は、上機嫌で浅茅和歌子の要求を全て呑んだ。
 窓外には、既に秋の気配が迫っている。日の入りも早くなり、天上の闇の深さもその色を濃くし始めている。浅茅和歌子は、薮内に深々と頭を下げて社長室を出た。すると、そこには、今、話題になった経理担当の岡田取締役がアホな顔をして立っていた。思わず笑みを浮かべると、反射的に厳しい顔をして浅茅和歌子を睨んだ。あぁ、これが有名な岡田ポーズだ。威張りの形だ。久し振りに見たせいか、新鮮な感じがするし、なかなか様になっている。これはこれで、いいのかなと思いながら社長室を後にした。


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