「映像の逆訴」
〜8〜
金曜日の夕方。冬来は、社長に呼ばれた。社長室はフロアーの一番南側にある。そこからは、東京湾がパノラマで一望できる。この部屋に来るのも久しぶりだ。部長昇格の辞令を受けた時以来である。そうだ、三年前だ。そうか、明匠の特保製品のプレゼンに勝って部長に昇格した。あれから、結構時間が経っているが、社長室には意識的に来なかった。会社の業績は下降を続けている。それも、五年連続である。業界全体が二極分化しているとは言え、異常な事態だ。
当然のことながら、社員の年収は下がる。月々の給料はまだしも、ボーナスの下がり方が酷かった。生活にダイレクトに影響する。若い社員は辞めていく。不満は、給料だけではない。問題は、会社の行く末が展望できないところにあった。
原因は何なのか。そんな事は社員全員が判っていた。一つは、既存のクライアントの離脱。二つ目は、新規クライアントの未開発。全ては、ここにある。判っているのに解決策が示されない、役員や執行役員、局長の怠慢と言っても過言ではない。そんなことが、五年も続いている。誰が見ても可笑しいと思う。ましてや、クライアントの立場からすると、そんな代理店と取引を続けて心中することになれば大変である。企業の宣伝部門を預かる責任者は、苦渋の決断をする。それが、離脱なのだ。
社長の吾迦多二三男は、O&Uの親会社U社の役員を経て、昨年の四月にO&Uの社長に就任した。一年が過ぎた。就任当初は、社員の期待も大きかった。低迷する会社を一変させるのではとの思いがあったが、一年も経たない中に馬脚が現れた。会社ゴッコ、仲良しクラブに入らなければ人にあらず。ますます、社内の雰囲気は悪化し、取巻き・お小姓集団が幅を利かすようになっていた。いつからか、そんな会社になってしまった。
冬来は、それが嫌だった。YESマンを周囲に侍らせ、裸の王様よろしく、好き嫌い・損得・飴と鞭。こんなことが蔓延して会社がよくなるはずがない。親会社U社のシステムや方針を、そのまま、こんな中小企業の会社に導入しても上手く行かないのは当たり前だ。経験は年令を重ねると、落ちこぼれを意味し、戦力の場から遠ざける。役職定年制がそうだ。仕事が出来るかどうかは、年令には関係ない。年を取る事は経験を重ねることだ。それが、無為になっているのであれば、役職や経験に関係なく、そうすれば良い。若い人にチャンスを与えることとは全く別次元の話だ。そのため、勢いマインドは下がる。若い社員がそれを知って尊敬する事を忘れてしまう。尊敬のないところにチームは出来ない。
冬来は、それとは逆の事をやろうとした。だから、別に、社長とは話す必要もなかった。それが、社長室に出入りしない理由の一つだ。偉くなることが目的でない。この程度の会社で偉くなってもタカが知れている。それよりも、経営の観点を持ちつつ、アドマンとして、クライアントのビジネスを如何に伸ばすか、そして、その先の生活者に良質のコミュニケーションを、どう展開するのか。その方が重要だった。
呼ばれて入った社長室には誰もいなかった。なぜ、呼ばれたのかも想像できない。人間は、好意の作用・反作用がある事を十二分に理解している。だから、派閥も出来るし、仲良しクラブも出来る。その観点からすると、冬来と吾迦多社長は反作用だけの筈だ。だが、物理学的には、反作用だけと言うことはない。作用があるから反作用がある。そうすると、冬来と吾迦多社長の間は、どちらから作用をしているのか。
冬来は、窓辺によって眼下を観る。品川沖の東京湾は、既に闇が深い。明光色の光跡が面を錯綜している。冬来は、こういう風景が好きだ。繁忙の中の、一幅のパノラマ絵は、心を豊かにしてくれる。黙って、観ているだけで落ち着いてくる。光跡を追っていると、見る見るうちに闇が濃くなり、窓ガラスに雨滴が踊り出した。雨音は聞こえてこないが次第に激しくなってくる。雨足が砕ける様子を見ていると、社長の吾迦多は、毎日、この風景をどういうつもりで眺めているのか。プレッシャーを跳ね除ける糧にしているのか。深闇だけが知っているような感じがした。
「おぉ、スマンスマン」
と、言って、グレイのスーツで身を包んだ、吾迦多社長が戻ってきた。業界では珍しい姿形だ。頭をつるつるに磨いている。オーデコロンなのか香水なのか。かなりきつい香りを使っている。社内を歩いた後には、残香がその軌跡を教えてくれる。
冬来は、軽く頭を下げた。こうして二人できりで会うのは苦手だが、仕方がない。早く、用事を済ますべく、
「何か、話でもあるのですか?」
冬来は、ぶっきらぼうに言った。吾迦多は、冬来の話し方を予想していたらしく、苦笑いを浮かべた。血色は良いし、顔面は脂ぎっている。
「いや、久し振りだね。君と話すのも」
吾迦多の話し方には、懐かしさを感じさせるような含みがあった。冬来は、その手には乗らないと、
「三年ぶりじゃないですか」
またもや、ぶっきらぼうに言う。
「そうか、そんなに経つかね」
「予算会議でぐらいしか、社長の顔は見ませんから。仲良しクラブにも入っていませんし」
ちょっと、嫌味を利かして言った。
「仲良しクラブ?なんだね。それって?」
「いぇ、別に。そんな事はどうでもいいことです。それよりも、用件は何なのですか?この後、明匠の浅茅課長と会わなければいけないのですが」
「そうか。浅茅君は元気かね」
「えぇ、元気ですよ。新製品の導入も上手くいったし、株価も上がっていますからね。薮内社長も喜んでいますよ」
「そうそう、一度、薮内さんと、田尻君、浅茅君に挨拶に行きたいね。アポを取ってくれないかね」
吾迦多は、『WAKA』の扱いをO&Uが取ってから三ヶ月にもなると言うのに、御礼の挨拶に行ってなかった。今の言葉でも分かるとおり、クライアントの宣伝責任者に対しても、(君)付けで呼ぶ。本社にいる時のセンスー俺は偉いのだーをそのまま引きずっている。中小広告代理店の社長だという、認識がないのだ。
営業担当の田取締役からも、再三再四、社長との面談の手配を依頼されていたが、薮内社長をはじめ、吉越常務、田尻部長、浅茅課長から連れて来るな。と、きつく言われていた。
「社長、申し訳ありませんが、ここ当分は、新製品のことがありますので、ご挨拶は無理だと思います。年末にしたらどうですか」
冬来は、冷たく言い放った。吾迦多は、下を向いたまま黙っていたが、急に身体を起こすと、冬来のことを見下ろした。
「冬来君、今日の相談だけどね。君を局長にして、白木君を部長にしようと思うのだが」
吾迦多は、突然、人事の問題を話し出した。俺の提案に文句があるのか。と、言う顔をしている。どうだ、と言う表情だ。自信に満ちた目配せもしている。冬来は、なぜ、急に社長がこんな事を言い出したのか。自分の事を仲良しクラブに取り込もうとしているのか。そんな手には乗らない。大体、昇格人事であれば、担当役員、局長を通して下ろすのが普通である。それを、社長自ら、部長を呼んで、関心を買おうとしている。最低な奴だ、と思って、
「社長、急にどうしたのですか。私を局長にするなんて。役員会に諮っているのですか?」
吾迦多は、私の言い方を訊いて、ムッとした顔を見せると、意外な事を言う奴だ。もっと、感謝しても良いのではないかと言う表情を浮かべた。
「なんだ。君は、局長になりたくないのかね?」
「局長?別になりたいと思いませんよ。なんで、今、私が局長なのですか?」
冬来は、吾迦多の本心が見え見えだった。明匠の扱いを拡大している上に、社内の若手からの支持もある。今現在、O&Uでの吾迦多社長の取巻きは、御小姓集団と仲良しクラブのメンバー。その中に、今まで、自分の息がかからなかった冬来を取り込めれば、社内の若手もついてくると、即断しているのだ。
そうは行かない。そんな簡単に吾迦多に取り込まれては、周囲にいる社員に申し訳が立たない。間違っても、甘い誘惑には乗らない。自分だけが、いい思いをするなんていうことは、出来るはずがない。社長も、人を見て発言しろと、言うものだ。
「なりたくないのかね?」
吾迦多は、冬来の事を見誤っていた。ポストを与えれば、自分の意のままになると思っていたのだ。誰もが、出世することを喜ばない人間はいない。それは、責任ある立場に立てば、自分のイメージで仕事を進めることが出来る。上に立つことは、会社経営の一端の責任を負うのは当然だが、代理店の場合には、クライアントのビジネスとコミュニケーションに責任を持つことも重要なのだ。
吾迦多の視点には、その後者のクライアントの観点が抜けている。
O&Uで、出世する事は社内問題ではなく、社外、それも、ビジネスのパートーナーである、クライアントのビジネス領域のコンサルティング・サービスが出来なければいけないのだ。クライアントの繁栄が代理店の繁栄に繋がる。
冬来は、その事を自分なりに理解していた。現在は、明匠製菓をはじめ、幾つかのクライアントを担当している。少なくとも、それらのクライアントのビジネスに対しては、イメージと構想力は持てる。局長になれば、その数が増える。自分が担当するからには、それらのクライアントに対しても、同じようにイメージと構想力を持ちたい。ましてや、執行役員や取締役になるのであれば、それ以上のイメージと構想を持つ必要があるのだ。冬来は、上に立つということは、そういうことだと思っていた。
「なりたい。なりたくないの問題ではありません。それじゃ、訊きますが、どういう理由で、私を局長にするのですか?」
「それは、決まっているじゃないか。明匠の扱いを拡大した功績だよ」
「明匠さんの功績?社長、あの仕事は、私だけで取れたわけではありません。チーム全体の功績です。それを、私だけを上げるなんて、そんな事は許せませんよ」
吾迦多は、冬来の意外な逆襲にタジタジになった。昇格を望まない奴はいない。偉くなる事と、給料が上がることが、サラリーマンのモチベーションの筈だ。それを何だ。冬来は、拒否している。冬来の反逆は、亜迦多の経験にはなかったことだった。
「この際ですから、言わせてもらいます。では、田役員が、局長から執行役員になり、何の業績も上げずして、なんで、役員になったのですか。局次長の渡染さんが局長になった理由はあるのですか。社長のお小姓、米沢さんの執行役員。局次長がいないかと言って、釜山さんの局次長への昇格。どれを見ても、可笑しいですよ。社員の誰もが納得をしていません」
「冬来君、人事は、社員に納得してもらって決めるわけではないのだよ」
「そんな事は、解っていますよ。ですが、上に上がる人は、社員から尊敬されるような人が上がらなければ、いけないのです。なぜなら、そのセンスが、社員のモラルやモチベーションに影響するからです」
「そんな事、君に言われなくても判っているよ」
「じゃ、再び、言わせて貰いますが、この間、新規でH製薬を取りましたよね。あの時に、今回の明匠と同じように、会社中が浮き足立ちましたね。社長は、担当の部長、岬を昇格させました。結果は、どうか。一年経って、競合にかけられ扱いは消えました。だが、昇格された本人の肩書きは消えないのです。一緒に仕事をしているメンバーは解散する。彼らの配属を最後まで面倒見られればいいのですが、そんなことも出来ない。示しがつかないではないですか。だから、迂闊に昇格人事などしてはいけないのです。昇格は、一点、その人物が、尊敬されるかどうかで決めるべきです」
「尊敬されるかどうかで?」
「そうです。尊敬されると言うことは、勿論、仕事は出来る。人間的にも向上心がある。経営的なセンスもある。そして、何よりも、クライアントを愛し、社員を愛すことが出来る人。そういう選択眼を持っている人を選ぶべきです。社長自身は、それに当てはまっていますかね」
冬来は、いい機会だと思って、日頃、自分の考えている事を一気に吐露しようと思った。吾迦多は、社内を歩かない。社員の顔もしらない。社長室に来る人間しか知らないのだ。御小姓集団と仲良しクラブからの情報が、異質ではあるが、唯一の情報源になっている。だから、適切な情報が取れないのも仕方のないことだった。
「君は、どう思うのだ?」
「何を、ですか?」
「私のことだよ」
「随分、言いにくい事を訊くのですね」
「正直に言ってみろ」
へぇ、吾迦多社長って、案外、気が小さいのだ。やはり、社員からどう見られているか気になるのだ。それだったら、態度を変えればいいのに。取巻き・仲良しクラブを解散させれば、簡単なことだ。でも、出来やしない。権力を履き違えている奴には無理なことだ。出来る奴は、最初からそんな仲良しクラブなど作りはしない。
「尊敬していないと思いますよ。身体につけた、香水かオーデコロンかは知りませんが、それは、いやいや嗅いでいるでしょうが、仕事上で、社長の香りを嗅いでいる社員は、一部の人間を除いて、いないと思いますね」
冬来は、はっきり言った。
「一部の人間って何だね?」
「聞きたいですか。御小姓集団と仲良しクラブのことです」
吾迦多の顔が、見る見る内に赤く染まる。つるつる頭のてっぺんから湯気が立ち上る感じだ。身体を震わせて、今にも、冬来に飛びつかん態度だ。冬来は、知らん顔をしている。上気している吾迦多の様子を見て、秘書の飛田さんに電話を入れた。冷たい飲み物とお絞りを頼んだ。あくまでも、冷静な対応をしている。
「社長、従いまして、私の局長昇格はなかった事にしてください。明匠の新製品がしっかり定着して、来年度以降も、今年を超える扱いが来た時に、もう一度、お伺いいたしたいと思います。それよりも、冬来部の扱い数字は、七十億円を超えます。部員八名と内勤セクションの協力の賜物です。これから説明する事は、栄局長に言ってありますが、白木専任部長の部長昇格をお願いします」
「それは、局長を通して、田取締役から聞いているよ。だから、君を局長にしようとしたのだよ」
「それは判っています。私の事はさて置いて、今回のプレゼンを仕切った白木を部長にしてやってください。お願いいたします」
冬来は、この時だけに限って下手に出た。白木と自分との年令は、一歳しか違わない。社内では、御小姓集団と仲良しクラブのレッテル張りで、白木のイメージが出来上がっている。
白木は二年サイクルぐらいで、媒体や営業、SPセクションを回っている。落ち着く場所はなかったが、三年前に冬来の下に配属された。その間、中途半端な奴だとか、融通が利かないとのレッテルを貼られた。だが、白木はそんな奴ではなかった。直言居士の部分が上に対して厳しい意見になることがあった。上からすると、面倒な奴だとの思いが走る。どうしても、権力に近くなると、自分を守るために、敵対する輩や、それに類する者にレッテルを張りたがる。そうすることで、優位性を保とうとする。白木もその対象になっていた。
「あぁ、明日の朝会の議題に、君の件と一緒になっている。そこで、決まるだろう。十月一日付けになる筈だ」
吾迦多は、冬来の眼を睨むと、事投げに言い放った。その間、冬来は、耳の痛い事を遠慮もしないで言ったが、吾迦多は、そんなに気にしている様子にはなっていない。気が小さいのではなく、結構、神経が細やかなのだ。
「ありがとうございます。安心しました」
一応の礼儀として、立ち上がってお礼を言った。吾迦多は、急にしおらしくなって、
「冬来君、他に何か言いたい事はあるのかね?」
冬来は、もう一度すわりなおした。クッションの弾力性がよくなったような感じだ。吾迦多は、社内の情報が欲しいのだろうか。態度が、落ち着いてきた。御小姓集団や仲良しクラブの人間からは聞けない情報が冬来にはある。どうせ、奴らは、都合のいいことしか報告しない。悪い情報をあげれば、自分の責任が問われる。だから、本来は、社長に直接報告をしたい部長連中がいるのだが、そうなると、如何に、指導・指示がされていないことがバレバレになってしまうために、社長への報告は、執行役員・役員を通してするようにとの不文律を作ったのだ。もともと、そんなものはありやしなかった。自分たちの都合に合せただけだった。
秘書の飛田さんが、アイスティーと、冷たいお絞りを持ってきた。テーブルに置くと、吾迦多に気づかれないように冬来に目配せをした。冬来は、一瞬、眼を疑ったが、肯き返して、形のいい歩き方をする後姿を見送った。あの仕草は、冬来に報せたいことがあるのだ。気になることもあったが、
「社長、この際ですから、もう少し言わせていただきます」
「何だね?」
「わが社は、どうして、こんな会社になってしまったのですかね。この五年間、業績は下がりっぱなし。若い社員は辞めていくし、モラルもラムネもあったものではありません。現に、今月も三人。先月は六人。来月も三人いるのです。外資系の代理店の草刈場になっています。
ある局長は、止めたいなら勝手に止めればいい。辞めていくのは仕方がない。と、無責任発言をしています。自分がどれだけの事をしているのか。物差しは自分が可愛いから、自分流のメジャーになっています。これが、また、最悪なのです。一人称だけの発言なのですよ。だから、社員の士気が落ちるのも仕方がないでしょう。
そう言えば、社長の発言も一人称ですね。聞くところによると、俺は、昔、新規で、あれ取ったとか、これ取ったとか、言うらしいですね。でも、そんな事は、この会社には関係はないことですよ。その経験を社員と共有して、一緒に仕事をするのであれば認めますけどね。社長がそうだから、取巻きも、新規が取れないことは、さて置いて、同じように無意味に、昔の事を語るのですよ。昔を語って、会社がよくなれば、私も語りますよ」
「それで」
と、言って、お絞りで汗ばんだ顔を拭った。その顔には、若干ながら緊張が見られた。冬来は、言いよどんでいたが話を続けた。
「社長、この会社は、O社JAPANと、社長がいたU社の子会社が合併して三十年が過ぎました。その間、社員は、お互いのクライアントに対して、全力でサービスを提供してきたのです。成長期にあったとは言え、定年で退職した社員も含めて、頑張って来たのです」
吾迦多は、アイスティーを口に運ぶと、少しだけ口に含んだ。これから、冬来は何を言い出すのか、気になる仕草を見せた。一方、冬来は、ここまで言ってしまえば後は一緒だ。遠慮はしなかった。
「その頑張りは、社長が、この会社に来ようが来まいが、全く関係がないのです。社員全員が、既存のクライアント、そして、新規のクライアントとの関係を、先輩が続けてきた財産を活かしつつ、守り、開拓することで、我々、後輩に残してくれたものなのです。ですから、我々も、それを、守らなければならないのです」
「・・・・・・・・・」
「社長は、多分、二年でいなくなるでしょう。でも、考えてみてください。その間、会社の業績は悪化しているのです。社長は、ご自分がいる間に何を、会社に残そうとしているのですか。コンプライアンスですか。それとも、・・・・・・・。何なのでしょうか」
吾迦多は、相変わらず黙ったままだ。冬来の、余りにストレートな言い分に言葉を失っていた。
「社長。出るものを幾ら締めても、限度がありますよ。社員の犠牲の上で、どんな施策を打っても支持を得るのは難しいことです。それよりも、入りを増やすしかありません。
じゃ、どうするか。新規のクライアントを取るしかないでしょう。号令だけでは取れません。昔とは違いますからね。社長自らが動くしかないのです。昔の事をあれだけ語るのですから、社長が動けば、役員や執行役員。ましてや、局長や部長、社員も行動するでしょう。その先頭に立つのが、社長ですよ。活気が出てきますよ。だって、社長は、そのために、高い給料を貰っているのですから。
それに、社長とは言っても、社長、いいですか。社長は、この会社へ来る前は、何等、この会社に貢献をしているわけではないのですよ。だが、社長になった瞬間に、給料は、この会社から出ているのです。そうしたら、ご自分がいる二年間に何をしなければならないか。貢献する案件は何なのか。当然、そういう問題が出てきます。何をするか。それは、自明の理ですよ。新規の数字を残すことですよ。あるいは、そのキッカケを創ることでしょう。
どんなに立派な事を言っても空虚な事になります。お分かりですね。新規を取ることしかないのですよ。社員の給料を増やすのは、それしかないのです。これが、社長に与えられたミッションです。社長は、この事をコミットメントしなければいけません。社長の香りをもっと出してください」
冬来は、もっと、言いたいことがあったが遠慮した。また、いつかの時点で話すことがあるだろう。それまで、我慢をすることにした。
吾迦多は、顔の汗を盛んに拭っている。これほど、ストレートに自分に意見をぶつけてきた社員がいただろうか。そんな事は、あったためしが無い。都合の良いウイスパーしか届いていない。と、言うよりも、面倒臭い事は、持って来るな。そういう態度を取っていた。
冬来は、ちょっと、言い過ぎたかなと思いながらも、会社をよくするためには、社長自身の態度が変わらなければと、敢えて、厳しい態度を取った。
「冬来君、君は、ストレートだな。俺は、この会社のために何もしていないかね?」
吾迦多は、弱気な表情を見せた。どんな答えを期待したのだろうか。冬来の言葉を待った。
「えぇ、社長のU社時代の名声を聞くにつれ、今の社長は、何もしていないと思います。それ以上に、この二年間の時間が無駄になる可能性があります」
またまた、冬来は痛烈な表現を浴びせた。
「もういい。君は、明匠へ行くのだろう。早く、行きたまえ」
吾迦多は、立腹した様子で、秘書の飛田さんに連絡をして田役員を呼んだ。冬来は、おもむろに立ち上がると、一礼をして、社長室を後にした。窓外の雨は、既に止んでいた。
社長室を出ると、秘書の飛田さんの席に寄った。彼女は、ベテラン秘書だ。ここ四代の社長の秘書をしている。彼女には、他の役員も遠慮する。本社は当然、アメリカのとのやり取りも彼女がいないと成立しない。いまや、O&Uのキーマンになっている。
「はい、飛田さん。何か、あります?」
冬来は、気分を変えて、言うと、
「ここでは、なんだから。向うへ行きましょう」
そう、言われて、役員応接に連れて行かれた。途中で、社長に呼ばれた田取締役に会う。態度は社長。仕事は社員。横柄な歩き方で社長室に入った。すると、なにやら、社長の大声が聞こえてくる。飛田さんは、それを完全無視。さっさと応接室に入った。
「あそこの部屋の事は、放っておけば言いの。それよりも、冬来部長。これからの話は、社内でも内緒になっていますから、心して聞いてください」
飛田さんは、声を落として言った。冬木は、何事が起こったのか。社内のことであれば、口うるさい雀がいろいろ教えてくれるのだが、今のところ、そんな話はなかった。
「飛田さん、もったいぶらないで、早く、話してください」
冬来は、催促をした。飛田さんは、また、声を落とした。
「実は、今度の明匠のプロジェクトにも参加した、クリエイティブの天貝さんね」
「えっ、天貝に何かあったのですか?」
「やっぱり、知らないのね。冬来さんは?」
「何ですか?」
冬来は、いやな予感がした。天貝は、クリエイティブの中でも、繊細な一面を持っていた。神経が細やかだから仕事も丁寧で、いい作品を創る。今回の『WAKA』のキャンペーンでも、評判のテレビコマーシャルを創った。新製品の成功も、テレビコマーシャルの影響が可なりあった。
「ここだけの話よ。知っているのは役員だけ。実は、天貝さんの奥さんが自殺したの」
「自殺?本当ですか?何時の事ですか? なぜ、また、自殺なんか」
「それが、今の時点では、判らないわ。もう少し経たないとね」
冬来は、頭を抱えた。一体、天貝に何があったのか。いや、天貝夫婦に何があったのか。あんな、奇麗で、子供思いの奥さんが自殺するなんて、考えられない。夫婦仲も良いし、子供たち、確か、中学二年生と小学6年生の二人だ。子煩悩の天貝の生きがいは、彼ら二人の男の子だった。
世間的には、年間で自殺する人が3万人をはるかに超えているが、冬来にとっては、自分の身の回りで起きた事だけにショックが大きかった。自分の預かり知らないところで事件が起きる。天貝家の内情はわからない。日常の彼を見ていても、通常と変わらなかった。それだけに気がつくのが遅れた。手を尽くして上げたいと思っても出来ない。歯痒い感じだ。
冬来は、あんなに明るい天貝の奥さんが追い詰められた原因が何処にあったのか。それを、知りたいと思った。チームの一員の家族が自らの生命を断ったのだ。他人ごとには出来ない。天貝の子供達のためにも、真相を究明したいと思った。だが、彼の気持ちを考えると躊躇うものもある。落ち着くまでは、静観するしかない。
ここ数年の自殺の傾向は、統計で見ると、四十代、五十代のリストラされた人達や、銀行の早期債権回収に加えて、貸し渋りなどで資金繰りが悪化した、中小の経営者に多く見られる。企業の人事政策、それも、成果主義という、人件費の抑制論理に玩ばれた、経済的な圧迫感が心の安定感を奪う。ご都合主義の金融政策の間に翻弄されて、明日の仕事を奪われた事業主が、二進も三進も行かなくなる。それが、うつ病を生み出す。生きる喜びは失せる。自分の意志でそうするわけではないが、追い込まれて、必然的にその道を歩むことになる。痛ましい事だ。分かっていながらも、手を差し延べることが出来ない。
〜9〜
冬来は、浅茅和歌子との待ち合わせ場所に向かった。銀座の「式部」だ。品川からタクシーで二十分位か。八時を過ぎているので、国道一号線は混んでいる。
「すごいね。混んでいるじゃない」
冬来が運転手に声をかける。
「事故があったとは聞いていませんので、多分、自然渋滞ではないですかね」
「この時間じゃ仕方がないね」
「お客さんは、そうじゃないと思いますが、結構、閑人が多いのですよ。日本は平和でいいですよね」
運転手は投げやりだ。言葉をかけて欲しくないらしい。冬来は、咄嗟にそう判断した。これ以上、余計な事を言うと、何を言い出すか分からない。触らぬ神に祟りなし。それよりも、浅茅和歌子との約束の時間がとっくに過ぎている。三十分も遅れている。このままだと、もっと送れそうだ。社長の吾迦多に呼ばれたことと、天貝の、奥さんの自殺の件が、そうしていた。約束の時間も気になるが、それ以上に、天貝の奥さんのことが気になった。気分が重い。浅茅和歌子と会う前に、この鬱屈した気分を一掃しなければならない。
浅茅和歌子と話が出来る折角のチャンスだ。彼女と会うのは、『WAKA』のプレゼンの前日以来だ。三ヶ月ぶりのことだ。
新製品の導入は順調だ。このままのペースで、浸透・定着すれば、定番ブランド製品群として、明匠の顔になる。ここ十年間、菓子業界にヒット商品が無かったので、それだけに、『WAKA』の成功は画期的なことだった。菓子業界だけでなく、マーケティング業界でも今年一番の話題になっている。
今日は、導入の第一フェーズがひと段落したことで、浅茅和歌子が冬来を誘ったのだ。お疲れさん会なのか。それとも、他に、話題があるのか。天貝の一件が無ければ、楽しめる会合になるのだが、どうも、気分が乗ってこない。
八丁目で、タクシーを降りるときの運転手の対応は良くなかった。ツンとして、料金を受け取る。予定よりも十五分遅れているのに、あの態度には正直頭にくる。近頃、サービス精神のない運転手が多くなっている。それも、景気が悪いせいなのか。どこもかしこも、殺伐とした雰囲気になっている。
それにつけても、電通通りのネオンは相変わらずの輝きだ。八時半を過ぎても、さすがに人通りは多い。新橋の方からホステスと酔客が戯れる銀座に踏み込むと、ムードが変わってくる。気分もネオンのムードに合わせて、変わらなければいけないのだが、今日の冬来は、ちょっと違った。
冬来は、「式部」に向かった。ドアを重々しく開けると、
「いらっしゃい。どうぞ、奥の方へ」
カウンターの中から声が聞こえる。冬来は、その声の方に向かうと、カウンターが満席だったためか、浅茅和歌子は、一番奥のテーブル席に一人静かに座っている。
カウンターに並んでいる客が冬来を一瞥した。その視線は、興味本位だ。奥に座っている女性に、どんな男が来るのか。それを知りたがっている。冬樹を確認して納得したのか、一斉に元の鞘に納まった。冬来はジッと浅茅和歌子の方を見つめながら席に近づいた。
「課長、遅れてすいません。来る直前に、吾迦多に呼ばれまして」
「O&Uを背負っている、部長さんでしょう。それぐらいの事は、当然あること。気にしないで」
浅茅和歌子は、さっぱりした口調で言った。その後、続けて、
「冬来さんも社長に呼ばれたの。実は、わたくしも、薮内に呼ばれたのよ」
「そうですか。奇遇ですね。同じ日に呼ばれるなんて」
「お互い、経営者なりに気を遣っているのじゃないの」
そう言って、浅茅和歌子は、カクテルを口に含んだ。冬来も、彼女と同じものを注文すると、タバコを取り出した。傍で、ジッポが、(カチッ)と、鳴った。浅茅和歌子が、冬来に差し出した。
(えっ、すいません。ありがとうございます)
と、言って、タバコを銜えたまま顔を近づけた。フッと一服吸うと、ジッポが、また鳴り、浅茅和歌子はバッグにしまった。紫煙の揺らめきは、二人の距離感を一気に縮めた。ちょっとした、彼女の気遣いが冬来を本来の姿に戻した。
冬来は、テーブルに置かれたカクテル《和歌子》を手に取ると、そっと唇を寄せる。香りが優しい。口に含むと、ジンの痺れが口中の粘膜に快い。フイと浅茅和歌子を見やると、笑みの表情が冬来を占領する。ドッキとする色気だ。黒髪のウエーブが肩で息をしているように揺れる。白のスーツ、ピンクのドレスシャツ。胸元に見え隠れする肌は、膨らみを豊に強調している。艶かしい香りが漂ってくる。大人の女が足を組んでいる姿を見て、冬来の重い空気は一掃されそうだった。
「浅茅さん、ちょっと、聞いて良いですか?」
「何かしら?」
「浅茅さんが、明匠に入られたのは、どういう経緯なのですか。プライベートなことで、申し訳ないのですが」
冬来は、今回の『WAKA』のキャンペーンの仕切り具合を見ていて、短期間にこれだけのプロジェクトを取りまとめ、実行に移すには、相当の経験と女性ながらの胆力が必要だと思っていた。社内は勿論のこと、O&Uをはじめ、外部の協力業者の取りまとめも、一筋縄には行かない。それを、苦も無くやり遂げてしまう。優秀な男でも、こうは行かない。そんな、仕事の進め方をする彼女の過去を知りたいと、冬来は、いつも、思っていた。今日は、いいチャンスだ。『WAKA』の導入も上手く行ったし、彼女にも余裕が出来たはずだ。ここを外したら、聞き出すチャンスは来ないかも知れない。冬来は、思い切って尋ねてみた。
浅茅和歌子は黙っていた。冬気の顔をキッと見ている。別に表情は変わっていない。いまの様子から察しても、嫌な事を聞かれたとも思っていないようだ。「冬来さん、おタバコいただける」
話す覚悟をしたのだろうか。落ち着いた表情をあいかわらず見せている。冬来がタバコを差し出すと、細くて白い指に挟んだ。冬来は、火を点けた。吸い先に口紅が付く。紫煙が上がる。フッと息を吐く。一連の動きが静かに連続する。
「冬来さん、わたくしの過去を知ってどうなさるの。離婚して、わたくしと結婚してくれるのかしら」
冬来は、顔を赤らめた。いきなり、過激な事を言われた。(離婚、結婚)そうか、冬来は思った。浅茅さんは、
(俺が離婚している事は知らなかったのか。もう三年前のことだ。大阪の世間を知らない、お嬢さんと結婚したのは十年前。五年後には別居。夜遅い仕事を嫁さんは理解できなかった。毎日が十二時過ぎ。土曜も日曜も無い。三百六十五日が仕事だった。幸いなのか、不幸なのか。子供が出来なかった。大阪から一人で出てきた、お嬢さんには、辛い毎日だったろう。夕飯を一緒にすることなんて、殆どなかった。一ヶ月に、一日もあればよかった。
嫁さんは、大阪に戻った。あの日も、夜中一時頃に家に着いた。鍵を開けて、部屋に入ると、冷蔵庫以外の家具はなかった。勿論、日常の生活に必要な小物はあった。寝室には、俺のベッドがポツンとおかれていた。
手紙も無ければ、言い残されたメッセージもなかった。それ以来、連絡を取り合うことはなかった。俺からも連絡をしなかった。縁があって契りを結んだのだが、お互いの我儘が復縁を認めなかった。
離婚届けが俺の手元に来たのが三年前。五年前に出て行った嫁さんも、もしかしたら、俺を待っていたのかも知れなかった。それが、二年間も離婚届けを送ってこなかった理由なのだろうか。子供がいたら、また変わっていたかもしれないが、これも、人生だと思って判を押した。
あれから、三年。俺の生活は全く変わっていない。女を愛す気分にも、なかなかなれない。仕事だけにしかアドレナリンにお目にかかれない。女の場でも緊張したいものだ。今が、チャンスなのか)
「浅茅さん、俺、言っていませんでしたかね。離婚したこと」
「あら、聞いていなかったわよ。聞いていたら、こんなこと、わたくしが言う筈ありません」
「それは、失礼いたしました。実は、三年前に離婚いたしました。理由は、つまらないことなので、聞かないで下さい」
「そうだったの。それじゃ、わたくしの事も聞かないで。冬来さんが結婚を続けていたら、離婚させるために話そうかと思いましたが、すでに、離婚されているのでは、話す価値は無いですね」
「えっ、それって、どういうことですか」
「簡単なことでしょう。離婚するにはエネルギーが要りますよね。わたくしも、自分の事をお話しするには、相当のエネルギーが要るのです。わたくし一人にエネルギーを消費させて、冬来さんは、知らん顔では公平ではありませんから」
「いや、良く分からない理屈ですね。そんな理屈があるのですか」
「冬来さんとの間では、そういうこともあるのよ」
「浅茅さんが、何を言いたいのか分かりませんね」
そんな様子を見ていた、「式部」のマスターが席に寄って来た。チェックのチョッキが職業を表している。いかにも、銀座のBARのマスターらしい。口ひげが色黒い顔に似合っている。ニコニコ笑いながら、席につくと、手に持っていたトランプをテーブルの前に広げた。
「和歌ちゃん、お客さんに手品をご披露しようかな。どうする?」
「そうね。やってあげて」
二人は、親しそうに話している。マスターが浅茅和歌子の事を「和歌ちゃん」と呼んだ。彼女も、親しそうな態度を取っている。冬来は、この二人は、ただ単なる、マスターとお客さんという関係ではないと、思った。マスターの年齢は、どうだろうか。六十を少し超えたぐらいかな。貫禄がある。浅茅和歌子の年は聞いた事はないが、四十歳前だとしたら、親子みたいな関係だ。
「お客さん。好きなカードを一枚取ってください」
そう言って、マスターが、トランプを広げた。冬来は、目の前のカードに視線を落とし、言われるとおり一枚のカードを選んだ。ダイヤのクイーンだ。冬来は手許で確認して、浅茅和歌子にも見せた。彼女は、多分、何回も経験しているせいか、黙って笑顔を送るだけだった。
冬来は、確認したカードをマスターのカードの中に戻した。マスターは、それを何回も何回も混ぜ合わせた。そして、一枚のカードを天井の隅をめがけて投げつけると、冬気の方に顔を向けた。
「お客さん、あなたが選んだカードは、何でしたか?」
マスターは自身を持って聞いてきた。冬来は、何が起こるのかは理解できないままに、
「ダイヤのクイーンです」
「ダイヤのクイーン? OK」
マスターは、もう一度冬来の方を見た。笑顔を浮かべながら、
「お客さん。あそこを見てください。天井の隅を」
冬来は、マスターに言われるとおりに、天井の右隅に視線を移した。暗い中に、トランプが一枚、天井に貼り付いている。眼を凝らしてみると、ダイヤのマークが見える。絵札だ。それもクイーンだ。凄い。冬来が選んだカードが天井にあった。不思議だ。
「凄いですね。なんで選んだカードが天井に?凄い」
「お客さん、どうですか。面白かったですか」
「あの、もう一回やってみてくれますか」
冬来は、そう頼んで、店内の天井をチェックした。貼りついたカードは、ダイヤのクイーンだけだ。種を自分なりに想像して、マスターの手先に注視した。マスターは、同じようにカードを冬来に取らせた。
(やぁ、はい)
マスターの掛け声が店内に響いた。
「お客さん、カードは何でしたかね」
「スペードのエース」
「スペードのエースですね。そのカードは、はい。あちらに」
マスターが指差したのは、カウンターの壁だった。リトグラフの脇に、確かに、スペードのエースが鎮座している。
冬来は、大袈裟な表情で、
「凄い。どうしてなのですか?」
「お客さん、あなた、天井をチェックされましたね。残念でした。二回目は天井にする筈がないですよね」
マスターは、得意気に冬来に言うと、傍から、浅茅和歌子が、
「初めて、見る人は驚くよね。でも、何回か見ているとバカらしくなって、なに、それって、思うのよね」
「和歌ちゃん、それを言ったら、おしまいよ。驚きがあるうちが華なのだからね。ところで、お宅たち二人には、驚きがあるのかね?」
マスターは、思いもしなかったことを聞いてきた。冬来は、思わず、浅茅和歌子の顔をみた。彼女は、何事もないような素振りで、トランプをケースの中にしまった。
驚き。冬来には、マスターの(驚き)は、浅茅和歌子との間のトキメキに聞こえた。久し振りの響きだ。マスターが、そういう言い方をするという事は、二人の間に期待するものがあるのだろうか。
浅茅和歌子は、冬来のそんな思いを知る由もなく、只管、カクテルを飲み続けている。
冬来は、この店の名前「式部」の由来を知りたかった。この前、来たときから気になっていた。
「マスター。一寸聞いていいですか?」
「はい。どうぞ」
「この式部っていう、お店の名前は、なにから取ったのですか?」
冬来は、それとなく聞いた。マスターは、視線を冬来から浅茅和歌子の方に移すと、一瞬、そこで止めた。目配せの間、無言の時間が流れた。マスターは、再び、冬来に視線を戻すと語り始めた。
「お客さん、私はねぇ。学生時代は文学部、それも、国文学科で、和歌の勉強をしていたのですよ。ここにいる、和歌ちゃんのお父さんとも同級生だった。三十一文字に秘める、人間の生き様や自然の偉大さ。激しい歌もあれば、心根を癒す歌もある。それに、惚れちまって、同人を集めてのサークルを、和歌ちゃんの親父さんと作ったのだよ。どこって、京都の市内にね。
卒業してからは、俺は、家業の印刷屋を継いだのだが、父親と上手く行かず、東京に出て来て、銀座で働くようになった訳さ。それから、十年も経った頃、運良く、この店の権利を射抜きで買うことができた。結構、苦労したがね。
その時に、店の名前を「式部」にしたのだよ。お客さんもご存知のように、百人一首の女性歌人に、五十六番―和泉式部、五十七番―紫式部と、続いて二人の式部がいるが、俺は、この二人が好きでね。店を出す時は、この名前にしようと思っていたのさ」
冬来は、マスターの話を肯きながら黙って聞いていた。浅茅和歌子を見ると、眼を閉じて、同じように黙っている。横顔が凛々しい。もの思いに耽っている姿は、熟女そのものだった。それよりも、今の話の中に、ちょっと気になった箇所がある。マスターと浅茅和歌子の父親が大学の同級生。それに、和歌のサークルの同人だったことだ。彼女自身は、自分の事を語りたらないが、マスターの話が、その一端を紹介した。冬来は続きを待った。
「そうそう、もう一人、式部がつく歌人がいたね。六十番―小式部内侍だ。彼女は、和泉式部の娘さ。娘と言えば、紫式部の娘も百人一首に入っているね。五十八番―大弐三位。みんな、それぞれ、特徴のあるいい歌だよ」
「その中でも、マスターは、誰の歌が好きなのですか?」
冬来は、興味深そうに聞いてみた。マスターは、よくぞ聞いてくれた、と嬉しそうな表情を見せると。
「この四人の中では、二人の式部は別格にして、小式部内侍の歌がいいね」
「どんな歌なのですか?」
「いや、多分、お客さんも聞いたことがあると思いますよ。― 大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立 ― いい歌でしょう。意味はですね。大江山を越え、生野を通って丹後へと行く道はあまりに遠いので、まだ天橋立は、この足で踏んでみたこともありません。それに、そこに住む母からの文(手紙)も、まだ見ていません。って、そんなところかな。それに、この歌には、掛詞が使われていてね。(行く野・生野) (文・踏み)が、そうなのだが、これが、当意即妙で成されたことで、小式部内侍の名声に大きく影響を齎したのだよ。」
マスターの説明を聞いていると、冬来は、和歌の魅力に取りつかれそうだった。自分の想いや自然の感性を素直に三十一文字で表現する。感情を凝縮させた文学。虜になりそうな感じがして来た。
マスターは、浅茅和歌子の名前の由来についての話をし出した。
「彼女、浅茅和歌子の名前、(和歌子)は、彼女に和歌に、短歌に、三十一文字に親しむようにとの、思いで、父親が付けたのだよ。それが効いたのか、高校生の時から、全国的に有名な、優れた女性歌人として認められていたのさ。今は、明匠製菓で、シガナイ宣伝課長をしているが、本来ならば、歌人の一派を成していても可笑しくないのだが。まぁ、その内に、やりだすのだろうが」
冬来は意外に思っていたことが、この時に氷解した。『WAKA』のコマーシャルの背景に、このことがあったのだ。レトロ感ある画像と、三十一文字に絡んだコピーの組み合わせ。あのコンセプトは、浅茅和歌子から出ているのだ。だから、プレゼンの後に、CMはやり直したいとの申し入れがあり、企画を天貝と一緒に練ることになった。これで、納得が行った。
浅茅和歌子にそんな才能があるなんて、まるで気がつかなかった。歌人の欠片も醸し出すことはなかった。普通の感覚からすると、どんなに仕事が忙しくても、自分の趣味を活かす時間を確保する筈だ。ストレス発散の場を持つことが、精神安定剤的な役割を果たす。ましてや、プロの歌人としても、十二分に通用するのであれば、その道を歩むことのほうが、浅茅和歌子には、似合っている。だが、彼女は、その道を選ばなかった。シガナイことはないが、明匠の宣伝課長の役職を全うしている。何故なのか。なぜ、そうしているのか。
冬来は、謎めいた女、浅茅和歌子に興味を抱かざるを得なかった。それにしても、今日は、収穫があった。浅茅和歌子の父親と「式部」のマスターが同級生だと言うこと。彼女の秘密の一端が抉じ開けられた。次いでに、彼女の父親についても聞いてみようと、
「マスター、浅茅さんのお父さんは、何をされているのですか?」
その時、浅茅和歌子の顔色が変わった事を冬来は気がつかなかった。同じペースで、マスターが話してくれるものだと思っていたからだ。マスターは、ジッと、冬来を見つめる。あまりの眼光の鋭さに驚いた。急に、どうしたのか。彼女の父親の話になったら、雰囲気が変わった。
「お客さん、彼女の父親は、彼女が六歳の時に亡くなったのだよ。その後、一ヶ月もしない内に母親も亡くなってね。それ以来、俺が、彼女の父親代わりさ」
マスターは、飾り言葉を交えないで、淡々と話した。そういうことか。だから、話したがらなかったのか。聞いて悪かったのかな。ちょっと、反省をした気分を込めて、
「すいませんでした。余計な事を聞いて」
「いゃ、いいのだよ。別に、隠すことでもないから」
それきり、冬来は、父親と、いうか、両親を話題にするような事はしなかった。浅茅和歌子も何事もなかったかのように、マスターにカクテルのお替りを頼んでいる。語らいも普通になっている。笑顔の表情が麗しい。
冬来は、気分を取り直して、
「ところで、浅茅さん。薮内社長とは、どんな話をされたのですか?」
「あぁ、そのことね。あなたには、またまた、いい話よ。新製品の広告予算増額の件ね。OKになったの。十一月から年末に向けて、一気にスパートするわよ」
「本当ですか。決まりましたか。良かった。ありがとうございます」
「増額した金額は十億円。全て、御社を通しますから」
「分かりました。万全を尽くします。チームの連中も張り合いが出るでしょう」
「そうよね。皆さんのお陰よ。『WAKA』が、ここまで来たのも」
「いぇ、浅茅さんのリーダシップの賜物ですよ。感謝しています」
「スポットの投下エリア、金額の配分。それに、インターネットの件はついては、白木さんと橋爪さんと決めるわ」
「私は、参加しなくていいですか?」
「大部長が、何を言っているの。そんなことより、局次長を飛び越して、局長じゃないの?」
「まだまだ、そんな器じゃありませんから」
冬来は、謙遜して言った。
「ところで、冬来さん。吾迦多社長とは、なんの話をされたの?」
きっと、聞かれると覚悟をしていたのだが、いざ本当にその場面になると、どうしたものか。どっち道、知られることだ。えぃ、この際、全てを話してしまえ。冬来は、吾迦多社長との内容を話した。浅茅和歌子は、時折、同意の顔を見せながら肯くが、美しい顔を顰めることもあった。
浅茅和歌子は、冬来の話を一通り聞くと、
「わたくしの勘が当たったでしょう。明匠から、これだけの数字を取れば、冬来さんの昇格に対して、誰にも文句は言われないわよね」
「いゃ、浅茅さん、数字に関しては、明匠さんのご支持で十分に頂いておりますが、私目ですね。これでも、結構、遅刻をしているのですよ」
「遅刻?」
「えぇ、その、遅刻が多いのですよ。そのために、折角、浅茅さんのところでの評価が高いのに、社内では、そうは行かないのですよ」
「なに、それって。可笑しいのじゃないの。もしかして、明匠チームって最悪なの?」
「今の、会社のルールから言ったら、最悪ですね。殆どの奴が、十時過ぎの出社ですから」
「誰が、それを決めたの?少なくとも、明匠チームの皆さんは、朝、遅れても、わが社に迷惑をかけていませんから、別に、問題にされる事はないと思います。だって、夜中まで、仕事をなさっているでしょう」
浅茅和歌子は、不本意な表情を見せて、メモ帳を取り出した。なにやら書き物をしている。
「誰とは、言いませんが。会社の中で、自分の意見が言える分野が、その部分にしかない人がいるのですよ。そういう人が大声をあげているのです。本来ならば、既存クライアントのために、あるいは、新規クライアントのために、O&Uとして、何が出来るのかを提案しなければならないのに、そこは、知らん顔。
ですから、吾迦多は、直接的には、私にその話を出しませんでしたが、社内でも、私の昇格を反対する人がいるのも確かなのです。でも、白木の件は、確実ですので、次に、白木にあった時には、浅茅さんからも、お祝いの言葉をかけていただければと思います。よろしくお願いいたします」
「他所の会社のことだから、言いたくはありませんが、可笑しな会社ね。朝、会社に時間通りに出てくる事は大事なことよ。でも、それを守るために、クライアント、ましてや、その先にいる生活者に対するサービスが、低下したらどうするのかしら。その方は、サービスが大事なことだと分かっているのかしら。
明匠も一部上場会社ですから、コンプライアンス委員会を構成して、それなりに対応しています。でも、わたくし達、広告宣伝とマーケティングに携わる担当者は、フレックスにしています。それは、何故か。朝、ルール通りに出勤していれば良いと言う物ではないのです。朝、決まった時間に、会社にいれば価値があるのではないのです。価値は、どんな仕事をしているかです。なにも出来ない幹部ほど、ご自分のパフォーマンスだけを考えるのよ。価値観の異なる人が、上司にいると大変ね。でも、冬来さん、その方は、明匠の仕事をされています?」
「いぇ、直接的な仕事はしていません」
「そう。万一、来るようなことがありましたら、連れて来なくていいですから。よろしくて」
冬来は、浅茅和歌子から、このように強い意見を聞いた事はなかった。社内の人よりも、クライアントではあるが、外部の人たちの方が、会社の事を真面目に心配してくれる。浅茅和歌子もその一人だ。
「冬来さんらしいわね。わたくしは、あなたのそういうところが好きよ。わたくしから見ていても、あなたは、O&Uの事を本当に心配しているわ。
偉くならなくてもいいのじゃない。偉くなったからと言って、わたくしのあなたに対する態度を変えるつもりはありません。偉くならなかったからと言って、態度は変えません。明匠にとって、その先にいる消費者の皆さんにとって、O&Uの冬来チームは大切なのです。つまらない、会社の思惑には囚われないで、冬来さんらしい生き方をして頂きたいわ」
浅茅和歌子は、至極まともな事を言っている。嬉しいことだ。クライアントの窓口の責任者にもかかわらず、そんな素振りを見せない。一人の人間としての対応をしてくれる。当初の広告宣伝予算、三十億円の八割はO&Uの扱いになった。今回は、その上に十億円が上積みされる。その全ての数字が、冬来の所の扱いになる。合計すると、四十億円に近い金額になる。O&Uのトップクライアントになる事は明白だ。
冬来は、天貝の奥さんの件を言うかどうか、迷った。現に、浅茅和歌子と天貝は、テレビコマーシャルの制作ではパートーナーだ。あのヒットCMも二人のアイディアが生きている。広告電通賞も取れるかもしれない。それだけ、質が高い作品だった。詳細が分からなかったが、後で、知っているのに教えなかったと、言われるのも困るので、今までの経緯を話した。
天貝の奥さんが自殺した。と、言う言葉を聞いた途端、浅茅和歌子の顔色が一瞬にして変わった。激しい変わり方だ。驚きの表情が満面に出ている。額に、冷や汗が浮かんでいる。今まででも、多少、表情が変わることがあったが、これほどの変化を見せる事はなかった。
冬来は、浅茅和歌子の、その変化が信じられなかった。あそこまでの変化は、天貝との間に何かがなければ、起こりえないことだ。これは、何かがあった。そう思わざるを得ない。暫くの間、声をかけずに見守った。どれくらいの時間が過ぎただろうか。ほんの一分か。三分か。長く感じる。浅茅和歌子は、胸で呼吸をしている。余程、ショックだったのだ。
冬来は、これ以上の話を続ける事は止めた。浅茅和歌子の動揺を静めることとの方が先だ。珍しいシーンを見てしまった。天貝との間に何があったのかは分からないが、ここでは、それを聞く事は出来ない。時間が経つに連れて、浅茅和歌子は落ち着きを取り戻した。呼吸も腹式に変わってきた。どうやら、大丈夫だ。
「浅茅さん、大丈夫ですか?」
「えぇ、すいません。余りに、突然だったので。取り乱して申し訳ありません」
「いぇ、私だってそれを聞いた時、暫しの間、絶句をしたのですから」
「そうですか。まだ、なぜ、そんな事をしたのか、理由はわからないのですね」
「分かりません。私、自身も、天貝と話していないので、直接は聞いていないのです」
「そうですよね。天貝さんも、混乱しているに違いありませんね」
浅茅和歌子が、がっくりした表情を見せた。
冬来は、これ以上、浅茅和歌子と一緒にいると、彼女が辛くなるに決まっている。そろそろ、解放した方がいいと思って、
「浅茅さん、帰りましょうか。明日は土曜日ですから、たまには、ゆっくりされたらどうですか?」
「えぇ、そうするわ。命の洗濯でもします。冬来さんも、くれぐれも、お身体には気をつけてね」
声には元気がなかったが、立ち直ったようだ。冬来は、浅茅和歌子のこの瞬間の事を網膜の奥に焼き付けた。
「冬来さん、天貝さんのことで、この後のことも分かり次第、教えてください。情報をお願いいたします」
「勿論、情報が入り次第、ご連絡をいたします」
「お願いね」
「分かりました」
浅茅和歌子は、天貝についての話に未練を残しながらも、腰を上げた。マスターに目線で合図をすると、冬来に挨拶をして、ドアに向かった。後姿にはステンドグラスが創った影が薄く揺らめいている。
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