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「映像の逆訴」


〜10〜

 清澄警部は、九月二十日の午後、日本橋にあるMブックセンタの本社にやってきた。この日の東京は、相変わらずの暑さだ。店の冷房もフル回転。一歩、店内に入ると、そこは、本当に別世界な感じがする。一階は、書籍売り場と化粧品メーカーのショウルーム。二階は、海外ブランドを中心にしたファッショングッズ。三階は、近くがオフィス街ということで、ステーショナーなどの事務用品を扱っている。店内は、折からの暑さを避けたいのか、若い女性からお年寄り、サラリーマンで、ごった返している。
 一階のレブロン化粧品会社のショウルームは、若い女性で混雑をしている。露出している肌は真っ黒で、夏に傷んだ肌をケアーするための相談に乗る、コンサルティングの女性は大忙しだ。
 清澄は、店内に充満する甘い香りの誘惑を断ち切って、混雑の中を足早に店員専用のユーティリティー・スペースに向かった。店内のお客用のエレベーターを避けて、裏口の社員専用のエレベーターに乗るためだ。勝手知りたる他人の家。制服を身にまとった社員と一緒になっても、誰一人として文句を言う人はいない。いい気なものである。
 その後の根津での殺人事件の捜査は、余りと言うか、殆ど進展していなかった。八方塞だった。現場周辺からの情報は、かなりの数が寄せられたが、ただ単に、数が多いだけで、捜査に役立つものはなかった。
 今日は、高島先生に、捜査本部での状況を報告して、対策を練るつもりでやってきた。七階に行くと、医務室の前は患者さんらしき人が、ドアの外に置かれた椅子に腰掛けている。長時間になることもあるので、看護士さんが気を利かして用意していた。
(ほう、相変わらず、繁盛している。さすがは先生)
 と、感心しながら医務室に入ると、中にも三人が待っている。外に三人。合計六人だと、この先、三時間は先生と話は出来ない。待っている人たちは、Mブックセンターには関係がないないようだ。
 良く見ると、皆さん、不安な顔つきをしている。落ち着きもないし、どことなく目が虚ろである。視点が定まっていない。少しでも、余裕があれば、単行本とか週刊誌辺りを手に取るのだが、それさえも出来ない状態だ。
 例によって、あちこち三〜四ヶ所の病院巡りをして、最後に此処へ来たのだろう。中には、先生の本を読んで来る人もいれば、評判が評判を呼んで、口コミで来る人もいる。誰もが、本当に不安そうな顔をしている。だが、この人たちが、今日、医務室を出て行くときは、少なくとも、今よりは元気な表情を見せるようになるのだ。
 本当に不思議なことだ。同じ医者という職業をしているにも係わらず、高島先生に診てもらった患者さんは、幸せだ。先生と会話をするだけで、生きる喜びに満ち溢れてくる。顔色に生気が蘇ってくる。笑顔が乏しかった人が、いつの間にか、大声をあげて笑い出す。ユーモアへの反応も敏感になる。結果が、余りに劇的なので、患者さん自身が驚きを感じるのだ。声にも力が籠って来る。
 そういう、清澄も先生の患者なのだ。あれは、四年前になるのだろうか。強盗殺人事件の捜査が進展しない中で、夜の睡眠がとれなくなった。それだけでなく、食事も喉を通らなくなった。本富士署管内の一軒家に強盗が入り、家庭の主婦が殺された事件があった。その日は、東京には珍しく五年ぶりの大雪が降った日だった。ご主人が出張中の事件だった。幸いにも幼い男は無事だったが、惨い事件だった。その時、捜査本部で指揮を執ったのが清澄だった。残された、ご主人と一歳の男の子のためにも、是が非でも、犯人を挙げなければならなかった。
 あの時も、今回の事件と同様に、手懸りがないために、捜査の進展ははかばかしくなかった。勢い、焦りが捜査陣に襲ってくる。一ヶ月が過ぎ、二ヶ月が過ぎた。三十人もの専従の捜査員がついたが、一向に目途がつかない。清澄は、二進も三進も行かなくなり、それが原因で夜眠れなくなったのだ。
 清澄が、先生の初診を受ける時は、既に憔悴しきっていた。いろいろ、話しを進めるうちに、先生は、深刻な顔をしている清澄に、
「清澄さん、あなたには心配事がありますよね」
「えぇ。そうです」
「じゃ、よく考えて見ましょうよ。その原因は、何なのだろうか、と思うでしょう」
 高島先生の内診は巧みだった。先生のひとこと一言が、清澄の根にある不安や焦燥を引き出した。
「えぇ」
 清澄は、声を低くして応えた。
 先生は、言葉の続けた。
「つまり、原因は、事件の解決が思うように行かないことにあるのですね」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「人間はですね。何時でも、どんな時でもそうですが、心配ごとがあれば、夜、眠れなくなりますよね。でも、それは、人間として当然の反応ですよ。その事は正常な反応なのですよ。もしかして、心配事があるのに、夜、グッスリ眠れるとしたら、それは、かえって異常と言わなければ可笑しいでしょう。
 我々は、現実的なところで、不安に思う気持ち、自分が抱えている問題を解決するためにはどうしたら良いか、何時も考えていますよ。不安から逃げる事は出来ないのです。それから、逃げようとするから、それがストレスになるのです。ですから、清澄さんも、それから逃げていないから、夜、眠れなくなるし、食事も取れなくなっているのです。そのことは、もう一度言いますが、極めて正常な反応だと思いますよ。人間、清澄にモット自信を持ってください。これから先、もちろん、高血圧などの検査もして、器質的な要因があってのことなのか、は、チェックしますけどね」
 清澄は、高島先生の、言われてみれば、当たり前の事を聞いて、気分が楽になってきた。それは、先生の言うとおりだ。心配事があるのに、グッスリ眠れるのは、どう考えても可笑しい。そう出来る人の神経は異常なのだ。その異常なことに気がつかないで、眠れないとか食欲がないとかで、自分を観てしまう。それが、実は、最悪なことだったのだ。だから、心配することのないように、日頃から準備をして、ことに当たる。だが、人間って弱い。分かっていても、そうは出来ないこともある。
 その後、先生からのアドバイスが利いたせいか、眠れないことはなくなった。それが、正常なことなのだとの意識が、好結果を生む状況を作ってくれた。目の前の見通しが開けて、事件の捜査に好転を齎した。
 リーダーの余裕や情熱が、捜査員のやる気を向上させる。それから、まもなくして、犯人を挙げることが出来た。それも、たまたま、推理マニアの先生に事件の概要を説明すると、人間の機微を知り尽くしている、先生の一言のアドバイスが、被害者周辺の模様を、ものの見事に浮かび上がらせ、事件解決の糸口になった。一歳の坊やに顔向けが出来た事は、清澄の警察官人生に大きなポイントになった。
 それからである。何かあると、高島先生に相談をする。同僚や部下の健康管理に先生の力を借りる。ユーモアを交えた先生の診察は、署内でも評判になった。無駄な時間を省き的確な診断をする。先生の専門外、とは言っても、外科手術とか、内視鏡や放射線の検査などは、専門の医師を紹介してくれる。先生自身が、何処までの診断責任を自分で負えばいいのか、自分の専門外であれば、専門の先生を紹介する。そういうことをしてくれる先生だからこそ、患者は、安心して先生の診察を受けることが出来るのだ。
 今日もこうして患者さんを見ていると、多分、遠方から来ている人もいる筈だ。時間は待たされるかも知れないが、それ以上に、先生の判断基準に則った、問診を十二分にした上での、他の医師には下すことが出来ない、先生の診断は的確である。
さらに、患者さんが無駄な時間を労さないように、地元の病院や医院に、診断結果を克明に記し、お互いに、協力して患者さんの治療にあたる。その結果患者さんは、安心して日常の生活に戻ることが出来る。
 清澄が、そんな事を思っている間にも、笑顔を浮かべた患者さんが医務室を後にする。医務室に入った時の、あのショゲタ印象が一変している。そんな姿に接すると、医師の仕事の重要性を感じざるを得ない。
 診察室から、高島先生の声、カーテン越しに聞こえてきた。
「おーい。お待たせ。清澄さん。どうぞ、中に入って」
 先生が清澄を中に呼び入れた。
 長時間、根をつめての診察を感じさせない声だ。患者さんへの対応と同じ感覚で、清澄にも接する。先生は、心身科をベースにした内科の名医であるから、患者さんの訪問はひきも切らない。上場会社の役職者や政治家などの名士も来るが、接する態度は、誰に対しても変わらない。全く、偉ぶらないのだ。それは、高島先生の医道に対する心構えが、そうしていた。
「先生、お忙しいところ、お時間を頂きまして、申し訳ありません」
「いゃ、そんな挨拶なんかいらないよ。それよりも、例の事件、京都の方はどうなりました。返事がきたのでしょう」
「えぇ、京都府警に調べてもらった結果が来ています。それを、お知らせに参りました」
「清澄さん、ちょっと、待ってください。それでは、由美君を呼びましょう」
 高島先生は、看護師に古屋由美子を呼ぶように指示をした。警部の話は由美子に取っても重要な話だ。これまでの事件の経緯からすると、父親と根津神社の事件とは、本当に関係があるのか。それに加えて、京都の一件と、金沢の一件から、高島先生は、古屋謙次郎の係わりを推理したが、それが、確かなことなのかどうかが。これから明かされる。
 由美子は、どんな顔をして、医務室に入ってくるのだろうか。その後の、父親の消息がどう変化しているのか。それも、興味の一つだ。あれから、二日経っている。集められた周辺情報を精査している、捜査本部の動きは進展しているのか。事件解決の糸口が見つかったのだろうか。最も気になるところだ。
 そうこうしている間に、エレベーターを使っているにもかかわらず、由美子が息を切らして、一見して演技っぽい様子で医務室に飛び込んできた。美人じゃないが愛くるしい顔に、好奇心のあり様が透けて見える。早く声がかからないのかと待っていたらしい。というのも、自分から注文を出すわけには行かない。
 先生と清澄の前に立つと、
「あら、清澄警部こんにちは。先生は、ご機嫌いかかですか。顔色も良さそうだし、心配するような状況ではありませんね。よし」
 そんな彼女、何時もの癖なのか、自分自身の診断と同じように、勝手に目の前にいる二人を診断した。
 そんな彼女の振る舞いで、医務室が明るくなった。その笑顔と態度は、父親が行方不明になっている事を微塵にも感じさせない。周りに心配をかけまいとする心遣いが憎い。
 高島先生は、由美子の天性の調子よさに、暫し、呆気にとられて言葉を瞬間失った。たかだか二十三歳の女の子だが、人の心を捉える術は、大人の域を超えている。
「先生、私を呼んだと言うことは、例の京都の件が分かったのでしょう。どんな結果だったのですか?警部」
 由美子は、自分なりに余裕を持ちながら、一丁前に生意気な発言をした。若い女性特有の背伸びした姿を見せたいのだ。
 清澄は、額に手を当てて、そんな由美子を頼もしそうに見ている。捜査が進まない中で、意気消沈している現場に、由美子みたいな明るい女の子は天使そのものだ。どうしても、気分が落ち込んでくる。責任感にも苛まされる。捜査の方針が定まらない時の、そんな気分を変えてくれるのだ。
 高島先生は、由美子の言葉を引き取った。
「警部、それでは、京都の件をお願いいたします」
 清澄は、顔を先生と由美子に交互に向けて、話し出した。
「先生、由美子ちゃん。京都府警に由美ちゃんのお父さんの写真を送りました。早速、音坂という刑事が「左京」へ行き、聞き込みをいたしましたが、残念ながら、古屋謙次郎氏ではありませんでした。それと、こちらでは、領収書についている指紋の鑑定とウコンという文字の、筆跡の鑑定をいたしましたが、いずれも、NOの結果でした」
「違った?」
 由美子が言った。意外という、目線を清澄に送った。
「違うって、どういうことですか」
「まず、写真の件ですが、これは、女将だけでなく、店の従業員からの聞き取りの結果、五人が一致して否定しました。もうちょっと、由美さんのお父さんよりは、若い感じだと言っていましてね」
「若い感じね」
「雰囲気は、サラリーマンではないような感じですね。髪の毛を長くして、サファリジャケットを着ていたそうです。それから、指紋も筆跡もやはり、一致しませんでした。」
「そうですか。当たりませんでしたか」
 先生は、そう言いつつも、がっかりした表情は見せなかった。こんな事はよくあることだ。事件には必ず幾つかの糸口がある。それを推理して、一件々検証していく。地道な捜査が実を結ぶのだ。「左京」に、女といた髪の毛が長い男。それは、古屋謙次郎とは似ても似つかわしくない男だ。一体誰なのか?
 だが、今回の場合は、いつもとは様相を異にしている。由美子の父親が、金沢での様子からして、何等かしら絡んでいるのだ。急がなければならない。時間が立てばたつほど、謙次郎の身に危険が迫って来るかもしれない。
 先生は、暫くの間、天井を眺めていた。頭を整理しているのだ。京都と金沢。ここにいた女は同一人物だ思われる。三田佳子と佐久間良子に見られた女のことだ。男の一人は、秀樹君が見たとおり、多分、古屋謙次郎だろう。自分の父親を見誤るはずがない。そうすると、京都の男は誰なのか。若くて、髪の毛の長い男。普通のビジネスマンではない。何か、特殊の職業人かも知れない。
 窓の外には、今時にしては珍しい、積乱雲が辺りを覆い始めている。青い空が、徐々に範囲を狭めてきている。一雨が来るのか。先生は、ジッとその模様を見ている。
「先生、何を考えているの?」
 由美子が、痺れを切らして言った。
「警部、京都の件では、ちょっと、早とちりをしましたが、根津神社の被害者は金沢を中心にしたところの住人ですね。当然、今までの経緯を見ていると、この事件については、由美君の父親も何等かしらの形で関係している。そう見ざるを得ないね」
「金沢の住人?」
「そう。もう一度、石川県警を通して、不明者の洗い出しをした方がいいでしょう。今度は、間違いませんよ。それから、由美君。謙次郎さんについて、過去を調べる必要があるね。これは、どうしても、避けることが出来ない案件だな」
 先生は自信を持って言い切った。それを聞いていた二人は、先生の深謀に対して敬意を払った。被害者の身許が割れれば、一歩前進がする。それに加えて、古屋謙次郎の過去が明らかになれば、それらをオーバラップする。お互いの過去をトレースして、共通する部分を取り出せば良い。
 清澄は、医務室を出て行った。直ぐにでも、石川県警に問い合わせをするらしい。
「先生、先日も、お話しましたが、父の過去については、私も母も、殆ど聞いたことがないのです。物心がついた時にも、父の友人たちが家に来たこともないし、父との出来事で記憶に残るようなことはありませんでした。それに、先生、聞いてくださる」
 由美子は、小学生の頃を思い出そうとして、少し寂しい表情を見せた。もう一度、先生方に向き直ると、
「小さい頃から、私と弟には、夏休みとか冬休みはありませんでした。何故かって、父が出掛けるのが嫌いだったの。休み中の絵日記の宿題は、家と公園、それに、プールぐらいしか画けなかった。他のお友達は、山や海、時には海外へ行っているのに。今、思うと、寂しかった」
 と言って、その頃の古屋家は、別に生活に困っていたわけではない。だが、なぜだか、古屋謙次郎は家族旅行をしなかった。唯一の例外は、先立ってのヨーロッパへの海外旅行だった。それにしても、家族と一緒に行ったものではなかった。
「由美君、その頃には、気が付かなかったかも知れないが、今になって見ると、もしかしたら、謙次郎さんは、他人に会いたくなかったかも知れないね。そうしたくない何かが、過去にあったのだろう」
「えぇ、先生、それって何ですか?」
「先生に分からないから、由美君に聞いているのじゃないか。謙次郎さんが、きっと、そうする何かがあった筈なのだよ」
 先生は、幾分、声を落として言った。
 由美子は怪訝そうな表情見せた。この場で、急に、そんな事を言われても、父親の過去について、興味を持ったことがなかったので、どうしたら良いのか、まったく思い浮かばなかった。だが、今回の事件からすると、由美子や母親の幸恵が知らない、父の過去があるのだ。もし、父親の過去に秘密があるのであれば、なんとしても、それを見出さねばならない。それが、事件解明の手懸りになるのであれば尚更である。
 中学から高校、そして、大学と進学するに連れて、父親との会話のチャンスは減ってくる。一ヶ月の内に、顔をあわせない日が何日もある。謙次郎は、柏の自宅と東上野の事務所の往復が殆どである。朝の六時には家を出る。帰りも、夕方六時には家にいる。夜も十時には寝てしまう。
 一方の、由美子は、高校、大学と東京に通っていたので、どうしてもタイミングが合わない。社会人になってもそうだった。お互い、擦れ違いになっているのだが、母親の幸恵をインターフェースにして、かろうじて、対話を保っていた。
「先生、家に帰って母とも話してみます。いずれにしても、父の行方を知るためにも、早急に調べます」
 由美子の緊張した話し方を聞いて、先生は、コックリと肯いた。
「そうして下さい。新たな被害者が出ない中に、解決をしたいですね」
「由美子さん、お願いしますね。根津の被害者については、先ほど、捜査本部に連絡を入れ、石川県警に照会するように指示を出しました。私達も全力を尽くします」
「お願いいたします」
 清澄の温かい激励に、由美子は素直な感情を見せた。先生は、二人のやり取りを静かな眼差しで見ていた。全く知らなかった二人が、自分のところで知り合いになった。それも、片方は殺人事件の解決の真っ最中。そして、もう片方は、愛すべく父親が行方不明。しかも、この二つが結びついている可能性がある。偶然とは言え、ここは一つ、自分が解決に乗り出さなければならない。
 先生は、再び、二人に向かうと、少し厳しい顔付きで
「清澄さん、それに、由美君。良いですか」
 二人は、先生の表情を見て緊張した。これから、何を言い出すのか。何か、思いついたことがあるのか。新しい解決策の提案があるのか。二人は、先生の次を待った。
「先生は、どうしても気になることがあるのです。それは、謙次郎さんの行動です。何が、謙次郎さんを動かしたかです。これは、謙次郎さんの過去を知ることと、同じぐらい重要なことです」
 二人は、肯いた。
「そこで、です。謙次郎さんの事務所の電話。柏の家の電話。それに、携帯電話の通話歴を洗う必要があります。先日の由美君の話によると、パソコンは、殆どやらないそうですから、メールのチェックは必要ないでしょう。由美君には、その他に、手紙、FAXなどの通信手段にも目配りをして下さい。何か、発見できるでしょう。清澄さん、お願いしますよ」
「はい。早速、その方も調べてみます。先生、他にはありませんか?」
「そう、この間、この話はしませんでしたが、例の《ウコンの後ろ》、ですね。もしかしたら、ダイング・メッセージかも知れなかった、と言う」
「あぁ、はい。あれについては、皆目検討がついていません。ダイング・メッセージなのか。それとも外に、何を意味しているのか?」
「えっ、それって何ですか?」
 由美子には、はじめての話だった。
 先生と清澄の話は、根津神社の被害者が持っていた、領収書の裏に書かれていた、《ウコンの後ろ》、と言うメッセージについてだった。捜査員の懸命な努力にもかかわらず身許は割れていない。唯一の手懸りが、この一言なのだ。
「警部」
 高島先生は、声質を変える気持ちで、清澄に声をかけた。
「文明の利器を使いましょう。ヤフーの検索で、ウコンを調べてみたらどうでしょうか。何か、ヒントがあるかも知れませんよ」
「えっ、それって何ですか?」
 由美子は、先生が、思ってもみなかったことを言い出したので、軽い驚きの声をあげた。先生が、ヤフー。信じられないことを言っている。
「由美君、どうかしたかね?」
 先生が、全てを分かった上で、由美子をおちょくった。一瞬、由美子はポカンとしたが、気を取り成して、
「警部、お願いいたしますね」
 と、言うと、警部は素直に、
「分かりました。早急に、結果を出します」
 清澄は、立ち上がると先生に軽く頭を下げて、医務室を出て行った。残された由美子は、先生の顔をジッと見入った。先生は由美子が、あらぬ考えを持たないようにするために、
「由美君、食事に行きましょう。今日は、由美君の好きなモスバーガーをご馳走しようかな」
「あら、嫌だ。先生、ご馳走してくださるなら、お鮨にして下さい」
「お鮨?いいですよ。ただし」
 先生は、もったいぶった言い方で、
「先生は、由美君のお父さんのように、お金持ちではないので、行きつけの回転ずしでいいかな」
「いいとも」
「その代わり、好きなだけ食べていいから」
「やったー」
 由美子は、嬉しさの余り、大きな声を出して先生に飛びついた。
 二人は、重ねあったままソファに落ちると、思わず、大声で笑いあった。


 天貝が、出社してきた。O&Uの社則によれば、一等親の忌引は、一週間の休暇が取れるのだが、三日もしない中に出てきた。仕事は一段落して、急ぎの仕事はないはずだ。もう少し、休めばいいものをそうはしない。
 どんなに、仕事人間であっても、ほどほどの常識が大事だ。だが、天貝はそうはしなかった。彼流に考えるところがあるのだろうが、それも、時と場合だ。冬来は、二人きりになって話して見なければ、理解出来ないところあると思っていた。
 これからは、二人の男の子と三人の生活になる。多感な彼らの事を思うと、母親がいないことが、どのような影響を及ぼすのか。それも、自らの命を絶ったことに対する、二人の悲しみを考えると、辛いものがある。
 クリエイティブのセクションは、天貝の件で持ち切りだった。噂雀がピーチクパーチク騒ぎ歩いている。あたかも、現場を見たがごとく、切実感を込めて話す。また、そんな話に乗る輩も、烏合の衆の一員になっている。ここ二、三日は仕方がない。時が解決するだけだ。天貝は、それまでは、耐えなくてはならない。
 冬来は、天貝を電話で呼び出した。外へ出て、喫茶店で、じっくり話を聞こうと思ったが、返って目立ってしまう。それよりも、社内の会議室の方が、時間を抑えておけば、誰も入室する事はない。詳細に亘って、事態を把握できるのだ。電話での感じは、これといって変わったところはない。そこには、いつもの天貝の声があった。一聴すると慣れ親しんだ、透き通った声だった。
 会議室のドアをノックした。返事がなかった。冬来は、ゆっくり開けると、電気が点いていなかった。右側から左の方に視線を移して行くと、窓際に男が立っている。外光はブラインドで遮光され、シルエットが黒く映っている。天貝だ。心なしか、ボーっと、しているように見える。
 冬来は、ドアの脇にあるスウイッチを押した。時間差を置いて、蛍光灯に灯りが灯った。その一瞬の間を見て、天貝がドアの方に振り返った。冬来は、軽く親しみを込めて左手を上げた。天貝もそれを見て、軽く頭を下げた。
(ポンポンポン)と、スピーカーから合図がなると、
(お呼び出しいたします。営業の冬来部長、冬来部長、至急、お席に連絡をおねがいいたします)  社内放送が冬来を呼んだが、冬来は、それを無視した。例え、クライアントの浅茅和歌子からの電話でも、出るつもりはなかった。それよりも、今は、天貝との時間の共有のほうが大事だった。
 冬来は、窓際に近づいた。傍に近づくにつれて、電話での声の割にしては、天貝のやつれ具合が目に付く。やはり、元気がない。急なだけに、心の整理もつかないだろう。
「おい、落ち着いたのか?もう少し、休めばいいのに」
「いろいろ、ご迷惑をおかけして、すいませんでした。また、通夜、告別式と御会葬いただきまして、ありがとうございました。休んでいても、気が滅入ってしまうので、出てきました」
「子供は、どうなのだよ?」
「学校へ行っていますよ」
「そうか」
 冬来は、最初は取り留めのない話から進めた。最終的には、奥さんの自殺の理由を知りたいと思っている。辛いことかも知れないが、仲間として、どうしても、聞かなければならない。なぜなら、天貝の奥さんは、冬来の親友の妹だった。
 天貝の真面目な性格を知って冬来が紹介したのだ。若い二人は、直ぐに意気投合した。その結果、紹介してから一年も経たない中に、結婚したのだ。子供も男の子が二人。社内でも、オシドリ夫婦で有名だった。独身の男性社員は、天貝の奥さんみたいな女と、結婚したいと夢中になっていたし、天貝に対しても、独身女性の信望は高かった。誰が見ても理想のカップルだった。幸せな家庭を築いていた筈なのに。それが、なぜ?
「天貝、葬祭場では聞かなかったが、奥さんがなくなった九月一五日。それに、翌日の一六日と、お前は何処に行っていたのだ。会社にも居なかったし。その日は、家に帰らなかったらしいな」
 冬来は、ストレートに聞いた。
 天貝は、黙っている。顔の様子を見ていると、一番嫌な事を聞いてくれたな、という曇った表情が、目の周辺に表れている。天貝が、こんな姿を見せるのは珍しかった。少なくとも、冬来に対しては、見せた事はなかった。躊躇いの皺が眉間に寄っている。苦しさが顔面にでている。冬来は、遠慮しないで続けた。
「何処に行っていたのだ?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 天貝は、冬来を見ると、フッと溜息を吐く。緊張している。
「出張ですよ。例の『WAKA』の全国展開の立会いに行っていました。あの時は、広島、岡山から大阪、奈良、京都、名古屋と回ってきましたから、九月十一日には、東京を出ていました。戻ってきたのは、十七日です」
「でも、全国展開の担当は、イベントを含めてSP局の担当じゃないか。君の出番は、CMの制作で、イベントに立ち会うことではない筈だ。そのお前が、なぜ、そこに行ったのだ。最終的に出張のサインをするのは、俺だよ。俺の記憶では、お前の出張申請にサインをした記憶がないのだが」
 O&Uでは、クライアントに関する経費の使いかたについては、必ず、営業部長のサインが必要である。出張や、外部協力業者に対する支払いについても、営業部長の承認が必要だ。従って、名匠製菓の作業については、全て、冬来のサインが必要なのだ。だが、天貝の出張には冬来のサインがなかったのだ。だから、冬来は言ったのだ。
 天貝は、貝殻のように口を開かなかった。しっかりと、冬来の指摘を聞いていたはずだ。まさか、自費で出張した訳ではないだろう。
「その事は、SP局の連中に聞けば分かることだよ。俺にも、言えない理由があるのか?」
「いぇ、別に、ありません」
「天貝、お前の奥さんの淑子は、俺の親友の妹だぞ。俺が、お前に紹介したのだよ。その淑子が自殺をした。何故なのだ?何があったのだ。俺は、それを知る権利があると思うが。どうだ」
 冬来は、言うまいと我慢をしてきたが、淑子の事を思うと言わざるを得なかった。淑子とは、兄の百田孝久との出会いから始まっていた。百田兄妹は本当に仲が良く、長野の家にはよく遊びに行った。M大学時代、野球部の合宿で、百田の家を利用した。両親と祖父母の、皆さんの面倒見が良く、部員全員の故郷のような所だった。
 大学を卒業して、孝久は故郷に帰り家業の農家を継いだ。経験農業に科学的な視点を取り入れ、作物の味覚や収穫量の増大に尽くしたいと思っていたのだ。一方、淑子は、東京の大学に進学するために長野を後にした。
 淑子が、四回生の時だった。その年の七月の梅雨は例年になく長引き、一週間で、千ミリを越える雨が降った。谷あいにある百田の家は、折からの豪雨の影響で、不気味な軋み音を発しっていた。時に、雷を伴う雨の降り方は、山の地盤を動かすことになった。
 荒れ狂う豪雨と雷光は、変圧器を直撃して、谷あい一帯が停電になった。懐中電灯と、蝋燭の明かりだけが頼りである。その時だった。轟音が山の上から聞こえてきた。
(ドッ、ドッ、ドッ・・・・・・・・・・・・・・・)
 土石流だ。時速百キロを越える勢いで、谷あいを降りてくる。いや、走ってくる。ドッウ、という音が近づいてくると、逃げ出すまもなく、百田の家をのみこんだ。泥水と巨岩が、周辺の木々を巻き込んで連続して家を襲う。中腹の山容は、見る影もなく形を変えている。それだけではない。三百年を越える由緒ある建物が、一瞬の中に崩れ落ちた。近所の人たちや消防団。自衛隊までが救助活動に参加したが、一家は全滅した。
 百田の祖父母、孝久夫婦と三人の子供。全員が土石流に埋められた。悪夢だ。自然の恐ろしさを目の当たりにした。数十年に一回しか起きない災害が、百田の家を襲ったのだ。
 淑子は、一人になった。親戚はいるが、付き合いは殆どない。それからは、自分ひとりで生きていかなければならなかった。
 冬来は、百田孝久との友情を考えて、それ以来、淑子の後見人の役割を勤めていたのだ、就職の世話から、天貝との結婚。自分の妹と思って接してきた。その淑子が自殺をした。放って置くわけにはいかない。天貝から、納得のいく説明をしてもらわなければ、冬来自身の気が収まらなかった。
 例え、チームメートでも、この件についてはハッキリしたかったのだ。
「冬来先輩。この件については、いくら先輩だからと、いって、話すわけにはいかないのです。勘弁してください。これ以上、聞かないで下さい」
 天貝は、強行に拒んだ。会議室に天貝の言葉が虚しく響く。冬来と二人だけの空間が、天貝の言葉を即座に吸収する。沈黙の時間が数秒だが辺りを支配する。それっきり、天貝は、言葉を一言も発しなかった。
 天貝には、例え、冬来でも言えない事があったのだ。その原因は自分自身の責任なのだ。そのことが、淑子を自殺に追い込んだ。ある意味では、会社も、そのことに絡んでいるかも知れなかった。だが、天貝自身がその事に、確信を持っていない。それは、天貝の家だけの問題ではなく、O&Uの社員全体の問題でもあった。それだけに、冬来に、言うわけにはいかなかったのだ。
 一方で、冬来には、浅茅和歌子との件がある。天貝の奥さんが自殺した話をした時の、あの異常なくらいの反応。かつて、浅茅和歌子とは、三年を超える仕事をしてきたが、あんな狼狽した姿を見せた事はなかった。
 この話をしようかどうか、迷った。冬来が知らないところでの、二人の関係を質すことになるかも知れない。これは、冬来のとっては辛いことだ。そうすることで、二人の関係が、仮にあったとしたら、自分自身の感情をコントロールする自信がなかった。
 あの時の浅茅和歌子の反応は尋常ではなかった。顔色も変わり、冬来の顔をまともに見ようとはしなかった。呼吸数も異常に早くなった。自分の感情を抑えることが出来ない。慌てふためいた様子は、冬来が知っている浅茅和歌子とは、全くの別人だった。
 もし、この事を天貝に質したら、彼は、何て応えるのか。知らん顔をするのか。それとも、何等かしらの関係を話すのか。彼女と別れる時に、天貝に関する情報を、出来るだけ教えて欲しいと言っていた。あの言葉を聞いて以来、冬来は、浅茅和歌子と天貝との間に、自分が窺い知ることが出来ない、暗い闇の塊があるように思っていた。
 『WAKA』の仕事が決まった際、浅茅和歌子に明匠の会議室へ呼ばれた。三社競合ではあったが、冬来のチームが勝った。プロジェクト予算の八割を任された。だが確か、あの時にテレビコマーシャルの制作に条件がついた。コンセプトを変えることと、制作プロダクションをチェンジすることだ。その時の、O&U側の窓口を天貝が担当した。冬来が天貝を正式に紹介した。二人の間は、それが接点だったはずだ。あれから、三ヶ月が過ぎた。二人の間に、何かがあったのだ。
 冬来は、天貝の顔をあらためて直視した。目線を外さなかった。今の天貝だったら、冬来の視線を受けないと思ったが、彼は、逃げることなく、まともにそれを受けた。その姿を見て、ここでは、浅茅和歌子の事を言うのは控えようとした。
淑子のことだけに限定して、
「分かった。もう、これ以上は言わない。お前が、言える時が来るまで待つよ」
「すいません。先輩に心配をおかけして、申し訳ありません」
「淑子の事は、もういい。だが、出張申請を出さないで、『WAKA』の発表会に行ったのは、どういうわけなのだ」
「それも、簡便して下さい。時が来れば、必ず、先輩に話します」
「そうか。そのことについても、説明出来ないのか」
 天貝は、コックリと肯き、席を離れようとした。これ以上、この場に居るのが辛くなってきていた。妻の自殺。それだけで参っているのに、その理由を一気に攻められると、精神的にタフだと思っていた天貝も、さすがに、居た堪れなくなる。これから先のことについても、自分なりに整理をしなければならない。まずは、息子二人を成人するまで、しっかりと世話をする。母親がいなくても、親子三人には、いつも、母親が見守ってくれている。その事を信じて、力強く生活をして行くのだ。
 天貝は、そう思って、
「先輩、もういいですか。デスクに戻りたいのですが」
「あぁ、いいよ。悪かったな。辛い思いをさせて。二人の息子を頼むぞ」
「ありがとうございます。彼らのために、頑張ります」
 言葉に力を込めて、言い切った。天貝の顔に、安堵の表情の欠片が浮かんだ。冬来は、天貝とは対照的に、心の片隅に不安の一片を宿していた。この不安が解消されるのか。時間の流れを待つしかなかった。


〜11〜

 白木と橋爪は、明匠製菓の応接室にいた。浅茅和歌子に呼ばれたのだ。『WAKA』の初期導入の売り上げは予想以上だった。全国への商品説明会でのオーダーは、向う六ヶ月で、百億円を超えていた。
 チョコレートだけでなく、クッキーやケーキ、飲料までが、トータルでブランド展開されている。生活者の反応も良く、二十代から四十代までの女性に支持されているようだ。CMも話題になり、人気ランキングのトップスリーに入っている。このままで行くと、年間の売り上げは、月商二十五億円として、三百億円が視野に入っている。大成功だ。
 広告代理店の人間として、クライアントの製品がヒットする事は、担当者冥利なことだ。プランがなかなか決まらなくて、徹夜することも度々だった。深夜の三時ごろになると、体が火照って熱くなり、頭の回転の鈍さを意志のコントロールで持たせる。睡魔と能率の間に追い込んでのプランは、難産であればあるほど、生活者に受け入れられ、実際の消費行動に結び付いた時の喜びは大きい。
 いゃ、この喜びがあるからこそ、この喜びを感じたいからこそ、常在、全てが仕事だとの思いが強いのだ。特に、二十七歳の橋爪にとっては、『WAKA』の成功は、自分の経歴を一際、目立たせることになる。他の外資系の代理店が直ぐに目をつける。異動れば、収入も三十%はアップする。チャンスは、いい仕事をしていれば巡ってくるのだ。
 実際の話、これは、広告代理店の社員だけでなく、産業界全般で、人材の流動性が高まっている、適社ではなく適職。大企業ではなく、自分で事業を起こす個業も始ている。919にも、団塊の世代から若者までが、紹介職と自立職を求めて、登録をする人が増えている。
 応接室で暫く待っていると、ドアがノックされた。白木はドアの方に視線を移した。橋爪も、それに引き付けられるように、同じ行動を取った。
 濃い目のピンクのツーピースを身にまとった、浅茅和歌子が入ってきた。部屋の中に、一輪の花が咲いたようだ。華やいで、ムードが一変する。白木の視線が釘付けになっている。彼女が、一歩きするごとにパッと雰囲気が変わり、明るくなる。白木は、浅茅和歌子の動きをそのまま追っているが。橋爪は、恥ずかしそうに視線を戻した。二人にとっては、浅茅和歌子と今回のように、個別の打ち合わせをするのは初めてだった。従来は、部長の冬来がその任を担当していた。だが、浅茅和歌子から、直々に二人に声がかかった。それだけに、緊張する。
 新製品の売れ行きが好調なため十億円という、予算が増額されるに際し、浅茅和歌子が白木と橋爪を呼んだのだ。
二人は、浅茅和歌子の動きを見るにつけ、視線は釘付けになった。それが、だんだん、自分たちに近づいてくる。胸は高鳴り、呼吸も緊張で荒くなる。香水が二人の鼻腔を捕らえられた時、浅茅和歌子は、目の前のソファに腰を下ろした。
 スカートの裾を気にしながら、ソファの背もたれに沿って、深い位置を取った。瞬間、二人の視線が固定される。浅茅和歌子は、その事を意識して、わざと、恥ずかしい素振りを感じさせるように縁起をした。二人は、ものの見事に、浅茅和歌子の術中にはまった。
 面白いことに、足の組み換えごとに、二人の視線が踊っている。まるで、手玉に取られた感じだ。浅茅和歌子の一挙手一投足に惑わされている。これは、彼女の戦略だった。仕事に対して、厳しい態度を取りながらも、少し、柔らかい対応を魅せることで、女である事を強調しているのだ。これに、男は嵌ってしまう。浅はかだとは思うのだが、男の生理がそうさせるのだ。
「お待たせいたしました」
 浅茅和歌子の一声が、二人の耳には快い。
「いぇ、これしきの事。それよりも、またまた、ご予算を増やしていただきまして、ありがとうございます。部長から、聞いております」
 白木が、型どおりの挨拶をすると、
「当然でしょ。皆さんのお陰で、新製品の導入も予想以上の成績を示しています。それに応えるには、予算を増やして、報いることしかありませんからね」
「そう言っていただくと、返す言葉がございません。感謝申し上げます」
「あら、白木さん。あなたも、冬来部長と一緒で、堅苦しい挨拶をなさるのね。杓子定規な事はおやめなさい。そんなこと、何の意味もないわよ。私たちと、皆さんは、イコール・パートーナーなのですから。確かに、明匠は、クライアントかも知れませんが、だからと言って、白木さんが、卑屈になる事はないはずよ」
 浅茅和歌子は、至極、当たり前の事を言った。
 橋爪は、黙って二人の会話を聞いている。それよりも、浅茅和歌子の自信に溢れる、態度と言葉遣いに圧倒されていた。
「それよりも、仕事の話を続けましょう。先ほども、述べましたとおり、新製品は好調な売れ行きを見せています。全国的には、東京や大阪、名古屋などの大都市は予想以上で、当初の目標の十五%アップ。その他も、五%から十%を上回っているのですが、岡山、仙台、福岡、札幌の四地区だけは、目標スレスレなので、このエリアにテレビスポットを集中出稿します」
「課長、そうなのですか。私が聞いている範囲では、全てのエリアで目標を超えていると聞いていますが」
 白木が言うと、
「白木さん、どなたから、お聞きになったかは知りませんが、他の人の意見は聞かないで下さい。わたくしが、最終的な判断をいたします。いいですね。番組は、N系列とF系列のゴールデンに、提供番組を続けます。それに、今、申し上げたエリアにスポットを投下します」
 浅茅和歌子は、白木の言葉を従えるかのような言い方をした。その言い方からすると、この件に関しては、浅茅和歌子は一歩も譲らないという態度が、明確に見て取れた。
 白木は、一方的な浅茅和歌子の注文を聞くしかなかった。時折、橋爪の方を見るが、彼は、表情を変えなかった。白木にしてみれば、浅茅和歌子から、そこまで言われれば、反論はできなかった。
「分かりました。その線で、作業を進めます。ただし、一言だけいいですか」
「何かしら?」
「期間が迫っているため、目標とするGRPは、もしかすると、取れないかも知れません。出来るだけの事は、やってみますが」
「お願いいたします。どうしても、その四地区はやりたいの。細かい出稿については、志水係長と詰めて下さい。白木さんのパワーを信じております」
 浅茅和歌子は、一呼吸を置いた。白木のやる気を促すようにして、顔から視線を外さなかった。じっと見た後、橋爪の方を見ると、
「それじゃ、テレビの件は、それでいいですね。次に、CSとインターネットと、モバイルね」
 浅茅和歌子は、話題をインターネットに移した。『WAKA』 は、ワンブランド・マルチプロダクツなので、テレビで全てを説明する事は出来ない。テレビは、飽くまでも、『WAKA』のブランド訴求が中心だ。それ以外のところは、プリントメディアで、キャンペーンの深度を高める。メディアの特性を考えて、ミクシングをする。でも、目からの情報、つまり、映像主体の訴求が大事なファクターだとも、併せて考えていた。
「橋爪さん、お元気でした。先日のプレゼン以来、薮内は、あなたのファンになったみたいよ。若いのに、しっかりしている、ってね。勿論、わたくしは、昔からファンでしたが。冬来さんをはじめ、チームの皆さんが頑張ってくださっているので、『WAKA』も、軌道に乗っているのよ。本当に、感謝しています」
 浅茅和歌子は、神妙な顔を見せた。
 橋爪は、引き続き黙って聞いていた。プレゼン以来、浅茅和歌子に会うのは久し振りだった。あの時は、事前に打ち合わせをして、薮内社長対策を練った。これには、部長である冬来も参加しなかった。浅茅和歌子と橋爪、二人だけの秘密の戦略だった。
 白木は、浅茅和歌子と橋爪のやり取りを傍で聞いている。彼女の会話は、自分に対する時とは、明らかに違う。自分以上に、橋爪は、浅茅和歌子に近いようだ。橋爪の態度も、会社で見せる、突っ張ったところがない。比較的、従順だ。彼にしては、珍しい態度の取りかただ。
「課長、CSとインターネットに関しては、これ以上、手を打つことはないと思います。それよりも、モバイルに重点を移しましょう。それも、若い女性を対象にした、モバイル『WAKA』キャンペーンを実施します」
「どんなプラン?」
 浅茅和歌子は、興味深そうに質問をした。
 橋爪は、笑顔を浮かべて、嬉しそうな顔つきをした。
「『WAKA』に因んで、モバイルを使って、現代版の『百人一首』を募集します。古人に戻って、『和歌』を詠む。参加者の、自然・愛・恋・に対する、想像性の発露を三十一文字に表現してもらいます。そして、応募を募ります」
「それで?」
「応募された作品を、平成の『百人一首』として、発表いたします」
「面白いと思うけど、応募者がいるかしら?」
 白木は、相変わらず、二人の会話をただ、黙って聞いているだけだ。和歌や短歌、三十一文字の世界には、トンと興味がなかった。浅茅和歌子も、それを知っているのか、白木の方を見ようとはしなかった。
「お正月の歌会始。一年のスタートを期して、幼子からお年寄りまで。海外にいる、日本人からも応募がある。これは、日本人の精神文化なのです。俳句もそうです。たまたま、『百人一首』と、言っていますが、本当に創りたいのは、古今集や新古今集。拾遺和歌集や後拾遺和歌集、大きくは、万葉集みたいな歌集の現代版を創りたいのですが。それを進めることが、『WAKA』のプレステージをあげることになると、思います」
 白木は不思議そうに顔をゆがめた。なぜ、こんなに若い橋爪が和歌を語っているのか?ただ単に、興味があるからという問題ではない。この話している内容は、自分自身も三十一文字の世界に、身を置いていなければ出来ない。白木は、浅茅和歌子と橋爪を見つめながら、二人のやり取りを聞いていた。
 浅茅和歌子は、橋爪の説明を聞きながら、どの程度の費用をかければいいのか、算段をしている。十億円の予算が追加されている。これを有効に使う事は、飽くまでも、『WAKA』のブランドイメージのアップと、販促に効果がなければならない。だが、橋爪の提案は、一回きりで終わったら、全く意味がない。五年、十年と続けることに価値がある。自分が責任者でいる間はいいが、いなくなった後、継続できるのか。その点だけが心配だった。
「橋爪さん。このプラン、継続できるかしら?」
「課長、『WAKA』がある限り、この企画は続きます。ただし、途中で、モバイル技術に変わるものが出てきた時は、それに応じて、技術的には、変化を受け入れて、修正することもあるでしょう。だが、その場合でも、この企画は生き続けることは間違いありません」
 橋爪は自信を持って言い切った。白木は、彼の迫力に圧倒されていた。二十七歳という若さで、浅茅和歌子を説得する。到底、自分には出来ない技だ。それだけ、彼女に信頼されているのだ。提案力もあるし、若さを最大限に活かした押し出しもある。それが、明匠製菓の社長から現場の担当者までに愛されている理由だった。
 若さだけで、橋爪は評価されているのではない。IT技術の可能性を熟知しているし、それを、コミュニケーションに落とし込んだ時に、どういう結果が見出されるかをイメージしているのだ。これも、冬来の影響だった。
(イメージと構想)冬来の考える、代理店の全てのセクションに関係する人たちが、現状の仕事、そして、将来を見据えた仕事に対して、期待すべく成果をイメージする。それも、構想を持っての上で。
 それを、冬来チームは全員が実践しているのだ。
「いいわよ。やりましょう。予算の管理は、うちの志水さんと、白木さんに任せますから、調整を、橋爪さんと三人でお願いいたします。きっと、上手くいくわ。社長や常務、それに、部長に対しては、わたくしが根回しをしておきます。明日中に企画書をあげてください」
 浅茅和歌子は、白木の方を見やって言った。その上で、
「白木さん、テレビスポットの件は、くれぐれも頼みましたよ」
 と、強い口調とキリットした態度をあらためて見せた。
 白木は、軽く頭を下げて、恭順の意を表した。だが、浅茅和歌子が、なぜ、四地区へのスポットの出稿に、そんなに拘るのか、不思議に思った。彼女は、売り上げが伸び悩んでいると言っているが、自分が、明匠社内で取材した限り、そんな話は聞いていない。もし、そうであるとしたら、そのエリアの担当営業所をはじめ、担当者その者も、安閑としてはいられない筈だ。だが、そんな話も聞いた事はなかった。
「今日は、ありがとうございました。これからが、本番よ。よろしくお願いいたします」
 浅茅和歌子は、そう言って颯爽と席を立つと、二人をドアの方に促した。窓越しに、西の方を見ると、落ち行く夕日が何時になく巨大な塊となって、姿を消そうとしている。

 高島先生と清澄警部、由美子の三人が、Mブックセンターの医務室に集まった。この間の会合で問題にされた案件の報告がされるのだ。
 一つは、被害者の身元。そして、もう一つは、古屋謙次郎の通話記録の確認だ。
 高島先生は、身元については楽観視していた。石川県の周辺の男だ。謎の女と古屋謙次郎が、被害者と接点を持っていた筈である。
「警部、どうでしたか?」
 先生は、普段と変わらぬ態度で、清澄に聞いた。
 清澄は、ポケットから手帳を取り出すと、ページを捲った。何ページか進んだところで、手の動きが止まった。
「先生。仰せのとおり、被害者は、石川県小松市にある県立K高校の国語の先生でした。名前は、石本二郎。年は、五十一歳」
「やはり、そうでしたか。でも、なぜ、高校の国語の先生が?」
 高島先生は清澄を見つめて言った。由美子は身元が分かって、安心したように二人の話を聞いている。
「不明になってから二日後に、家族から捜索願いが出たようです。ですから、事件の翌日の段階では、まだ、公開されていませんでした。家族の話によると、夏休みが終わって、休み中の勉強の進み具合をチェックするための試験をするので、その準備で忙しかったようです。学校から、帰ってくるのも、連日、十時を過ぎていたらしいですね。県立K高校は、石川県でも、有数の進学校で、先生の学習指導は、地元では有名で、石本さんは、その先頭に立っていたようです」
「それで、その石本さんが、どうして、東京の、それも、根津で死ななければならなかったのですか?」
「それが、不思議なことなのですが、由美子さんのお父さんと、そっくりなのです」
 そこで、由美子が身を乗り出した。今まで、黙っていた反動がそこにはあった。
「警部、それって、どういいことですか?」
「はい、あなたのお父さんと一緒で、訳が分からないうちに、突然いなくなったのです。それも、いなくなる二週間前ぐらいから、急に、鬱みたいな状況に陥ったことも似ていますよね」
「・・・・・・・・・・・・・・」
 由美子は、一瞬、黙ってしまった。父親と同じような状況に置かれた人が死んでいる。と、言う事は、父も同じような運命を辿るのか。
 この被害者の場合は分からないが、由美子の父親の生活は、業界の集まり意外は、殆どが家と事務所の往復だ。そこには、父親の遊びの世界が見えてこない。突然いなくなる理由など、考えられなかった。
 そのことは、高島先生も同様だった。自分が知っている古屋謙次郎には、遊びがなかったはずだ。仕事が好きだし、家族や社員を愛している。そんな男が、自分だけ、いなくなることが出来るのだろうか。
 だが、先生は、謙次郎に、ただ、一点だけ気になることがあった。それは、妻の幸恵にも由美子にも過去を語っていないことである。普通の父親だったら、青春時代の話や、恋の話を娘に語るだろう。誰だって、若い頃の女性や男性にモテタ話を自慢したいはずだ。しかし、謙次郎は、それさえも、由美子にしていない。ましてや、幸恵にも、なにも話していないのだ。
「先生、石本さんも、実は、生活は学校オンリーで、全てを、生徒のために使っていたみたいですね」
「それで」
 と、先生は、その先を促した。
「事件は九月十六日でした。学校は休みにもかかわらず、その日は、五時半には目を覚まし、何やら出掛ける仕度をしていたそうです。自分で、勝手にボストンバッグに荷物を詰めていたそうです」
「警部、それは、可笑しいでしょう。なぜって、根津神社の現場には被害者の持ちものが、あったのですか?なかったのでしょう」
「えぇ、ありませんでした。多分、犯人は、身元が判明するのを遅らせようとしたのだと、思います。」
「なるほど、そうも、考えられますね」
「忙しない気分で、九時には家を出たそうです。行き先は、何も告げておりません」
「本当ね。私の父と同じだわ」
 由美子は、清澄の説明を聞きながら、小さく肯いた。
「警部、石本さんは、国語の先生をしているとのことですが、他に、何か、参考になるようなことがありましたか?」
「はい。それを、これからご説明しようと思ったのですが。じつは、謙次郎さんに関する通話記録を調べた結果ですね、東上野の事務所の電話については、ここ一ヶ月の記録には、可笑しいところはありませんでした。それから、柏の自宅の電話にも、異常はありません。さらに、携帯電話は、使っていないことが多かったせいか、電源が入っていない場合が多く、事実上、使っていないといってもいいぐらいでした。
 石本さんについても、同様な調べをいたしました。学校、家庭、携帯電話と、全てを調べましたが、記録に残っている相手先の全てが、クリアにされています」
「メールやFAXも調べたのですね?」
「もちろんです。先生から、しっかり調べるように言われていましたので、抜かりなく、やりました」
「そうですか。そうすると、両者ともに、何を持って姿をくらましたのか、全く、検討がつかないと言うことになりますね」
「そうなのです。彼らを動かした情報がどのルートを通じて、流されたのか、皆目分からないのです」
「新聞や雑誌、テレビはどうですか?」
 先生は、不意に思いついたような感覚で言い切った。それについては、清澄も、当然、そういうこともあり得るだろうと、思っていた。
「そこなのです。通信・通話でなければ、後は、そこにしかないと思います。一応、ここ一ヶ月の、購読紙・誌についての調べと、家族からの話をもう一度、聞くことにしています。一両日中には、分かると思います。テレビについては、今のところ調べようがありません」
 清澄は、申し訳なさそうに、二人の顔を見渡して、頭を下げた。被害者の身元は、漸く分かった。だが、なぜ、東京の根津神社であのような姿になったのかは、今の段階では、解き明かすことは出来ていない。先生に、言われるまでもなく、石本に関しての情報は、全て集めつつあった。当然のことながら、石川県警とも連繋を保ち、この一ヶ月から、一週間前までの動きを洗うようにしていた。
 それに、古屋謙次郎とも、どこかで接点があるかも知れない。千葉県の柏と石川県の小松。二人の過去の歴史を溯ることで、何等かしらの捜査の糸口が、見出される可能性もある。諦めないで、地道な活動を続けるしかないのだ。
「ところで、警部。ウコンの調べの方はどうですか?」
 例のダイング・メッセージかも知れないウコンについて、この間の打ち合わせの時に、現代の文明の利器、インターネット・ヤフーの検索で、《ウコン》を調べてみることになっていた。
 カタカナの《ウコン》での検索は、二百万をはるかに超えるワードがあり、その殆どが、健康食品のウコンや通販サイトの紹介だった。平仮名のうこんも同様である。ウコンと言えば、漢字もあるのだ。右近がそうである。これも、調べてみると、その殆どが、高山右近一色だ。高山右近は、キリシタン大名として、戦国ー安土桃山時代を生き抜いた。昔の摂津の国、今で言うと、大阪府の高槻市周辺である。高山右近は、二十一歳から三十三歳までの十二年間、高槻城主を務め、織田信長、豊臣秀吉の家臣として、多くの武功を挙げたのだが、信仰を全うしつつもキリシタン禁制により、最後はマニラに追放された。
 清澄は、ウコンについて調べた結果を報告したが、その中には、ダイングメッセージなのか、(ウコンの後ろ)を、解き明すヒントを見出すことは出来なかった。
「清澄さん、京都御所の紫宸殿に、確か、《左近の桜、右近の橘》が、ありますよね。それは、関係ないのかな」
 高島先生が指摘すると、清澄は、知らなかったらしく、
「えっ、それは調べてなかったですね」
 そう言うと、バツが悪そうに下を向いた。
 先生は、おもむろに二人の顔をながめながら、
「京都御所は、有名な寺院が拝観料さえ払えば見られるのとは違って、年に春・秋の二回、五日間だけ一般公開されるのだよ。それ以外は、参観の申し込みを宮内庁にしなければいけないのだ。この御所には、天皇の《即位の礼》などの儀式を行う紫宸殿と、日常の住居であった清涼殿等など、これは、雅な世界が広がっているのだな。
 紫宸殿というからには、いろいろあるのだな。そもそも、紫は、天帝の座の紫微垣を表しているのだよ。それから、宸は、天子の御殿(帝居)で、平安京大内裏の正殿だったのだね。もともとは、朝賀、公事を行うところで、昔あった大極殿の廃止後は、天皇即位の大礼を行ったところでもあるのだよ。
 正面に高御座と、その右側には御帳台が置かれていて、晴れの儀式には、天皇は、この高御座につかれたのだね。昭和天皇の即位も、ここで行われたことは、言うまでもないがね。今上天皇の即位の礼に際しては、ここの高御座を東京に運んだのさ」
「先生、御帳台って何なのですか?」
 由美子が聞いた。
「御帳台はね、天皇の高御座に対して、皇后陛下が着かれるところだよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「そしてだね。紫宸殿の東側に左近の桜。西側に右近の橘があるのだが、問題は、この右近が、今回の(ウコンの後ろ)に関係があるのかどうかだ」
「先生は調べたのですか?」
「あぁ、そのために調べたよ。あれは、間違いなくダイングメッセージだね」
「どうしてですか?」
「だって、そうじゃないですか。あの領収書の裏に、(ウコンの後ろ)って、書いてあったが、あれは、(後ろ)に意味がなければ、ウコンでもよかった筈だね。それを、わざわざ、〈後ろ〉、という言葉を繋げて書いている。ということは、ウコンもそうだが、この(後ろ)、という言葉に意味がある筈だ。だから、敢えて、(後ろ)と、言っているのだね。いずれにしても、ウコンの解明が進まない限り、後ろの解明も出来ないことになる」
 先生は、フゥと溜息をついた。それを見て、清澄は、視線を天井に向けて踊らせた。この事件の解決は、被害者の身元が割れただけでは、少しも先に進まない。余りにも情報が少なすぎる。小松市の国語の先生、石本の不可解な動き。古屋謙次郎の同じような不可解さ。この二人に接点はあるのだろうか。
 先生は、謙次郎が、謎の女性と、石本の居住地である、金沢で遭っていることからして、接点があると思っていた。何等かしらの連絡役を担っているはずだ。何かの理由をつけて、石本を東京に送った。そして、根津神社での事件。それが終わってから、幸恵の携帯に連絡してきたことが真実なら、次に、仙台へ行っているはずである。
 この事件の鍵は、謙次郎の過去を、どうしても暴かなくてはならない。その過程に、必ず、石本と繋がる部分がある。
 先生は、それを確信して、由美子に聞いた。
「次は、由美君の方だな。どうしましたか?謙次郎さんの過去は?」
 由美子は、二人のやり取りに夢中になっていて、すっかり自分の役割を忘れていた。父親の突然の出奔。何か理由があるはずだ。不動産事業を起こしてから二十五年。真面目に仕事をしてきた。従業員の話を聞いても、顧客や同業者との間に、人の恨みを買うような事はなかった。それもそのはずだ。品行方正に仕事を続けてきたのだ。そうすると、古屋謙次郎の不明の原因は、それ以前のことになる。
 高島先生は、謙次郎の失踪は、東上野での不動産事業を始める前のことと考えていた。由美子のお母さんの幸恵さんと出会う前に、何かがあったはずなのである。それを確認しなければ、事件の全貌が見えてこない。
 由美子は、あれから三日三晩、母親と一緒になって父親の過去探しを始めた。書斎をはじめ、納戸や押入れ。考えられる所は全てに手を入れ、目を通した。学生時代の残物だけでなく、会社を立ち上げるまでの書類。衣類、こと、謙次郎に関するものを和室に広げて、丁寧に調べ上げた。
「先生、母と一緒に、考えられる父の持ち物全てを洗いました。それこそ、着る物のポケットまで、徹底的に調べました。その結果は、何が残ったと思われますか。私と母のセンスで、これから、何となく父の声が聞こえてくるようだ、と選んだのが、《山陽百人一首》の合本です。全部で十巻ばかりです。これ以外には、父の声が聞こえてきませんでした。電波を受信できませんでした」
 そう言って、本を先生に渡した。先生は、大事そうに受けとると、一冊一冊、丁寧にページを捲っていった。和紙に、丁寧に施された手作りの表紙は、平安の時代性を感じさせるようになっている。その上に毛筆で、《山陽百人一首》と、歌集の題名が書かれている。
 全体のページ数は五十ページ位か。中味も、薄い和紙で、そこにも一句一句、行書体の文字が華麗に列なっている。
「これは、同人誌なのかね?」
 先生が問うと、
「えぇ、多分そうです。そう思います」
 と、由美子は答えた。
《山陽百人一首》という、ネーミングだけあって、兵庫県、岡山県、広島県、山口県のメンバーで構成されていた。人数は、数えてみる、まさに百人。奥書を見ると、昭和五十五年一月から十月までの十ヵ月だった。
「それで、謙次郎さんらしき人の作品は、あったのかね」
「それがですね、先生。十冊、全部を良く見たのですが、作者はペンネームになっていて、どれが、父の作品だか分からないのです」
 先生も、目次に目線を落とし、一番から順番に見ていくと、確かに、名前はペンネームになっていた。これでは、どれが、謙次郎の作品かわからない。それに、この同人に謙次郎がなっていたかどうかも判っていないのだ。あくまでも、幸恵と由美子の読みがそうしているだけなのだ。
 先生が、謙次郎との付き合いをはじめて六年ぐらいになる。その間、彼に、和歌をやるような高尚な趣味があるとは思わなかった。時々、この医務室に来ては、無駄話をして帰るのだが、和歌のことについてはおくびにも出さなかった。政治や経済、偶には、趣味にも話が及ぶが、一回として、和歌や俳句の話は出てこない。
 ただ一度、能の話になった際に、あまりに詳しいので、驚いたことがあった。能の歴史、つまり、猿楽の能から明治になってからの能楽。その能の流派ーシテ方五流、ワキ方三流。それに、囃子方ー笛方、小鼓方、太鼓方。さらに、今、人気になっている、狂言の大蔵流と和泉流。それに加えて、謡の効用や能面、などについて、詳しく説明をしてくれたことがあった。
 能は、狂言の笑いに対して、源氏物語や伊勢物語、平家物語、源平盛衰記等などに素材を求めての、どちらかと言うと、悲劇的な内容だ。主人公は、殆どが死者であることから、過去を演じるという、極めて不思議な芸能である。
 舞台も老松を背景に、いたってシンプル。そこで、過去を静かに語る中で、人物の心理や情念、運命を描いている。シテが、回想し舞い、やがて、去っていく。必要最低限の表現手段で、舞台を大きく見せる。
 こういう話を、訥々と、してくれた。
 高島先生は、その時に、ここまでの内容を知っている事は、ただ単に、趣味だけではなく、学問的にもかなり、突っ込んだ勉強をしている筈だと、思っていた。そうでなければ、ここまでの話は出来ない。
「由美君、お父さんは、何処の大学をでたのかな?出身地について、話を聞いた事はなかったかね?」
 今まで抱いていた、疑問をぶつけた。
「その件については、母にも聞いてみましたが、母も知らなかったみたいです」
「おかあさんと謙次郎さんは、どこで、知り合ったの?」
「お見合いだったらしいです」
「お見合い?」
「じゃ、お母さんの出身地は?」
「香川県の善通寺市です」
「善通寺と言えば、弘法大師で有名なところだね」
「えぇ、そうです。行った事はありませんが、今でも、母の兄妹はいるそうです」
「そうですか。ということは、謙次郎さんも岡山の対岸が香川県ですし。それに、《山陽百人一首》のことも、あわせて考慮すると、兵庫、岡山、広島、山口辺りの出身ではないのかな」
 先生は由美子を見ると、わざと、惚けるような言い方をした。
「お役に立てなくて、ごめんなさい」
 由美子は、殊勝な態度を見せて、軽く頭を下げた。
「清澄警部」
 先生は、珍しく清澄の事を、警部をつけて呼んだ。清澄は、一瞬、ポカンとしたが、
「はい。何か」
「この《山陽百人一首》は、しばらく、私に貸して下さい。ちょっと、調べてみたいと思います。それから、謙次郎さんは、能とか和歌、俳句など、簡単に言ってしまえば、国文学に深浅は別にして、関係があったと思われます。私の感じでは、造詣が深いと理解していますが。例の被害者、石川の石本さんも、高校の国語の先生でしょう。これは、偶然ではないですね。そこに、接点があるという事を教えていますよ。
 ですから、もう一度、石本さんの過去。それも、《山陽百人一首》を含めて、出身地、大学、趣味など、洗って見たほうが良いですね。接点がありそうな気がしますよ。それから、謙次郎さんの行方の件ですが。この方はどうなっているのですか?」
「石川県警と宮城県警に写真を送り、交通機関や宿泊施設を中心にして、捜査を依頼してあります。今日の午前中の段階では、目ぼしい情報は入っていません」
「由美君の為にも全力を尽くしてください。お願いいたします」
 先生が、清澄にそう言うと、由美子は清澄の側により、両手で清澄の手を包み込んで、
「警部、お願いいたします。私で出来る事は何でもいたしますから」
 目に涙を浮かべて訴えた。
 清澄は、力強く肯くと、由美子の両手を逆に握り返した。


 高島先生と清澄警部、それに、古屋由美子は根津神社に来ていた。秋も徐々に深まり、十日前の事件がなかったかのように静かな様相を見せている。境内の鳩が、遊歩と遊飛を繰り返している。突然、
 (バタ、バタ、バタタ、バタ)
 鳩が、一斉に飛び立つと、傍にいた子供たちが歓声をあげた。
(すごい、迫力。何処へいくのかしら?)
 百羽ほどの鳩の行くへを追いながら、それぞれが、勝手な事を言っている。
 そんな子供たちの声を耳に留めて、三人は、つつじ丘の入り口に立った。
 清澄が案内した。現場に来てみて、何を思うのか。紐で組んだ鍵を取外して、中に入った。こんもりと盛り上がった、つつじは、花はつけていないが、秋の陽射しを浴びて息をしている。来年のために、今からエネルギーを溜め込んでいる。枯れ枝の抵抗を受けながら、被害者がいた場所に向かった。
 由美子は、目敏く、その場所に置かれている花に気がついた。傍によって確かめると、まだ、瑞々しさが残っている。
「先生、それに、警部さん。早く来て。お花が置いてありますよ。それも、奇麗なお花」
 由美子の声に誘われて、二人は、傍に駆け寄った。確かに、花束が置いてある。花は、生気を持っており、置かれてからそんなに時間は経っていないようだ。菊を主体にしたつくりだ。由美子は、何気なく辺りを見回したが、自分たち三人だけで、そこには誰もいなかった。
 清澄は、ジッと、その花を見て
「先生、こうしたことに気がつくのは女性ですよね」
「そうだね。これは、女性の仕業だよ。被害者のご家族が置いていったのかな」
「いぇ、ご家族の方は、ご遺体と一緒に小松に帰っていますから、そうではないと思います」
「じゃ、残っているのは、犯人と言うことになりますね。まさか、近所のどなたかが備えたわけではないでしょう」
「それは、ないと思います」
「警部は、犯人が備えたと思っているのですね」
 先生が確認すると、
「えぇ、そうとしか、考えられません。第一、近所の人たちは、つつじ丘には入れませんから、被害者が何処にいたかは知らない筈です。正確に、この場所に花束を置けるのは、犯人だけです」
「警部、先刻、こういう風に花束を置く神経を持っているのは、女性といいましたね。と言うことは、犯人は女性だと断定していいのですね」
 清澄は、先生のあまりの強い発言に躊躇いを持ったが、捜査に最初から携わっているのだ。ここは、自分なりの見解を見せなければならない。
「はい。私は、女だと確信しています。京都の件、金沢の件、先生も以前に指摘されていました、あの女優三田佳子に似た女です。その女こそが犯人なのです」
「警部、私は、それを聞いて安心をいたしました。捜査には、想像力が大事です。地道な捜査も、それがあるから出来るのです。そして、時に修正を加える勇気も大事です。トップのリーダーには、常に、それが求められます。勘も重要です。でも、それ以上に、地道な捜査を生む想像力が大事なのです。
 私が、もう一度、現場へ行きましょうと、言ったのは、実は、想像力を働かす事を、警部と由美君にも、分かって欲しかったからです。この事件は、必ず解決いたします。警部も由美君も自信を持ってください。勿論、先生も、お手伝いをさせていただきます」
 先生が、笑顔を表情につくると、清澄も由美子もつられて、同じ表情を満面に浮かべた。ここに三人の結束が出来上がり、事件の解明に向かって進むことになりそうだ。
 先生は、つつじ丘を見渡し、ゆっくりと境内の方の視線を落とすと、舞い上がっていた鳩が、翼の羽ばたきを落ち着かせて境内を埋めた。三人は、それを見やって、暫しの黙祷を捧げた。
 清澄は、この事件の難しさを知っているだけに、被害者発見の現場に立って、心を新たに奮わせるべく決意を固めた。


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