HOME > エブリディ・ラーニング > 小説 > 6週目


「映像の逆訴」


〜12〜

 浅茅和歌子は、八階の宣伝部で、各地からの売り上げの報告書に目を通していた。広告だけでなく販促の効果も出ているせいか。『WAKA』の売り上げの推移は順調だ。それにつれて、テレビ局の営業マンが来る頻度も上がってくる。酷い時は、一日に、十組の来客がある。仮に、一組に三十分を費やすと、三百分、五時間をテレビ局の人達に使わなければならない。それだけではない。新聞社や雑誌社の担当者とも会わなければならない。制約される時間がドンドン増えて、外部の関係者との折衝の時間が、一日の殆どを占める時もある。
 そんな事を、毎日続けていたら、仕事にならない。と言って、邪険にも出来ないので、仕方なく会っている。マーケティングの話をする営業マンは限られており、大部分が、食事の誘いやゴルフの招待の話なのだ。いい加減にして欲しいと思うのだが、それも、仕事と諦めている。
 それでも、中には、エリアの消費者行動分析を的確にまとめて、データとして、提出してくれるテレビ局もある。こういう営業マンとなら、会っていても面白いし、ビジネスのためにもなる。最近では、そういう対外的な折衝も、志水係長に任せるようにしている。
 宣伝部の次の課長は、今のところ、志水しかいないのだ。そうだとしたら、今から、その準備をしなくてならない。広告代理店だけでなく、テレビ局や新聞社、雑誌社、プロダクションの関係者とも、接触を持たなければいけないし、それにもまして、生活者を本当に知ることに、もっと、エネルギーを使わなければならない。
 いずれにしても、売り上げが伸びている時に報告書に目を通すのは、気分が良いものである。
「課長、O&Uの白木さんから電話です」
 と、米富嬢が、素っ頓狂な声をあげた。
「サンキュウ」
 と言って、電話に出た。
(は〜い。浅茅です)
(あぁ、どうも。O&Uの白木です。お世話様です)
(ご苦労様です。それで、何かしら?)
(例のスポットの件ですが。札幌、仙台、岡山、広島の四地区の追加、無事に取れました。まあまあの線が引けたと思います。GRPも予定通り、一五〇〇%が確保できました)
(白木さん、凄いじゃない。あんな短時間に良く出来たわね。ありがとうございます)
 浅茅和歌子は、何時になく明るい声で応えると、ほっと溜息をついた。この間のミーティングでは、四地区のテレビスポットに拘っていた。白木自身も、あの拘りを見た時には驚いた。いつもは、割と余裕を感じさせる浅茅和歌子が、あの時はそうではなかったのだ。意地でも、四地区にスポットを出稿するという、強い意志が感じられた。
(白木さん、十五秒と三十秒の素材については、志水さんから連絡をいたします。よろしくお願いしますね)
(了解です。連絡をお待ちしております)
 浅茅和歌子は、満面に笑みを浮かべて電話を置いた。予定通りにテレビのスポット枠を確保できた。それも、あんなに短期間の作業で、四地区、それぞれに一五〇〇%のGRPの線引きが出来たのだ。これで、東京をはじめ、首都圏以外の札幌、福岡、それに続く仙台、岡山での売り上げも確保できる。やはり、広告と販促、それに、営業の努力が、『WAKA』の導入を成功させている。
『WAKA』の評判が上がっているせいか、ここのところ、明匠の株価は増勢を見せている。株式市場が低迷している中でも、投資家の注目は、従来とは明らかに違っている。
 それにつれて、薮内に対する評価も上がっている。競合の他社が軒並み業績を落としているのに、一人明匠だけが、大きく前年を上回っている。『WAKA』のお蔭だ。このままで行くと、もう二、三期は、右肩上がりの状況が続くものと予想されている。それを指揮している薮内のセンスが、業界の内外から注目を集めている。当然のことながら、社内は活気に満ちて、社員の間にもプラス志向が漲っている。日常の顔にも自信に溢れている。
 当然、浅茅和歌子を中心とするプロダクトチームも賞賛の嵐を浴びているのは言うまでもない。だが、会社には逆の事を考える者もいる。その典型が前田役員だ。浅茅和歌子のすること、成すことを面白く感じていない。ただ、役員という肩書だけの仕事しかしていない連中にとっては、浅茅和歌子は許せない存在なのだ。途中入社四年にも満たない女が社の明日を決める、ビッグプロジェクトを仕切る。しかも、それが、成功している。社長をはじめ、殆どの社員が浅茅和歌子を応援している。自分たちの、時代の変遷のスピードについていけないことを棚に上げて、出来る女性課長の虐めに入っているのだ。
 どこの会社にもあることだが、男の嫉妬の凄まじさが、これほどのこととは、浅茅和歌子は思わなかった。それでも、これも通過儀礼だと、自分自身を納得させて、何事もなかったかのように、意に介さず振舞った。
 会社の連中に、女だからという弱みを感じさせないようにしていた。仕事はイーブン。男と女の違いだけで差別されるとしたら、これから、自分の後に続く女性社員に申し訳が立たない。それだけに、つまらない中傷には耳を傾ける事はなかった。
 ある意味では、浅茅和歌子は、明匠の女性社員の、憧れの的になっていた。男社会の荒波の中にいながら、臆することなく、互角以上の仕事をしている。男性社員を部下に、イメージと構想を持って仕事をしている。女性社員が、注目するのも当たり前だ。それが証拠に、今回の『WAKA』導入のチームリーダに、浅茅和歌子が選ばれたことが証明している。

 浅茅和歌子は、テレビを見ながら、コマーシャルをチェックしている志水を席に呼んだ。志水は百キロを超えているが、いつも、動きはスムーズだ。だが、このところ、節制をして五キロぐらい痩せた。そのせいか、心なしか汗のかき具合が緩やかだ。こんな感じなら、傍に近寄ってきても、汗臭い感じがしない。本当の男臭さを汗臭さと混同しないようになれば、志水も係長を卒業できる。
「志水さん、O&Uの白木さんから連絡がありました。追加した四地区のスポットが取れたそうです。素材の手配をお願いいたします」
「分かりました。どの素材を送りましょうか?」
「『WAKA』のBタイプを送ってくださる」
「はい。『WAKA』のBタイプですね。了解です。手配しておきます」
「お願いね」
 二人の会話は事務的に進んだ。何の感情も入っていない。取り立てて、余計な事を言わなくても、浅茅和歌子と部員との間は意思の疎通が出来ている。
 浅茅和歌子にしてみれば、これで、年内の『WAKA』のコミュニケーションプランは完成したことになる。後は、最終的に実施するだけである。六月のプレゼンテーションから4ヵ月が過ぎて、ほぼ、先行きが見えている。
 チームが発足して一年半、無我夢中でやってきた結果が出始めている。ここ暫くは、『WAKA』に賭けて行くつもりだ。情熱を注いだ分だけ愛情を感じている。
 そう思いながら、再び数字のチェックをし始めると、今度は、冬来から電話が入ってきた。久し振りに話すことになる。それは、銀座の『式部』で、会って以来だ。あの時は、最後の最後で、天貝の奥さんの、自殺の話をした。浅茅和歌子は、自分でも信じられないくらいに気が動転した。いつもなら、ポーカーフェースをする事には抵抗がないのだが、天貝の奥さんの自殺には、それが出来なかった。冬来以外の人からの情報だったら、なんとか繕うことが出来たが、当の本人からの情報だっただけに、そうは行かなかった。
 あの時、別れ際に天貝に関する情報が入手できたら、報せて欲しいとの依頼をしていたので、それで、連絡をくれたのかもしれなかった。
(はい。浅茅です)
(課長、冬来です。ご無沙汰いたしております。いろいろ、ご配慮ありがとうございます)
(いいえ、こちらこそ。追加の四地区のテレビスポットも無事に取れました。ありがとうございました。これで、『WAKA』の導入最終章のキャンペーンも上手く行くと思います。御礼を申し上げますわ)
(良かったですね。白木が媒体の連中からいろいろ、文句を言われましたが、あいつの粘り強さと頑張りで、予定通りの枠を確保できました。これで、一段落です。後は、お客さんの反応を待つだけです。上手く行くと思いますよ)
(そうね。そうあって欲しいわ)
 浅茅和歌子は、左手に電話を持ち替えて、右手で髪の毛を掬った。普段どおりの仕草をすることで、気分を落ち着かせようとしているのだ。冬来は、見ているわけではないが、受話器を持っている雰囲気で、それとなく、浅茅和歌子の居たまりを感じていた。
 冬来は思っていた。さすがは浅茅和歌子だ。電話からの調子は、面と向かっての状況とは違うが、平静を装っているように感じられる。だが、細かいニュアンスを冬来の耳は逃さなかった。声の上擦りに、浅茅和歌子の神経を使っている様子が見て取れる。
 冬来は、事務的に天貝のことについて、話し出した。
(課長、天貝が出社いたしました。先ほど、会議室で一時間ほど話し合いをいたしました)
(それで、なにか?)
(いゃ、葬式の直後だったので、突っ込んだ話し合いはしませんでした。もう少し、落ち着いてからにしたいと思っています。ちょっと、やつれていましたが、まあまあ、元気でした。一応は、先日の件もありますので、ご報告をさせていただきました)
(そう、元気でした。安心いたしました)
(ご心配をおかけいたしまして。申し訳ありません)
(いぇ。いろいろ、すいません。わたくしの方こそ)
 天貝のことになると、あれ以来、浅茅和歌子はいつもの調子を後退させる。何かあるのだ。一体、何なのだ。『WAKA』のキャンペーン、それも、天貝が、CMを担当するようになってからである。それまでは、時折、浅茅和歌子がO&Uに来社する時に顔を遇わせるぐらいで、直接的な仕事をしたわけではない。
 『WAKA』のCMは評判になっている。そのO&Uの担当者が天貝だった。当然、浅茅和歌子との接点は増えてくる。仕事ということになれば、接触の時間も長くなる。時には、徹夜に近いこともあるのだ。二人の呼吸が作品に影響する。密なる時間が深くなればなるほど、作品の質が変わってくる。
 冬来は、その時から、二人の間に共通の秘密が出来たのではないかと、推測するようになった。社内にも目を配り、勿論、得意先にも目を配ってきたが、二人の関係までには、届くものがなかった。それは、全く想像が及ばなかったからだ。まさか、二人が、という感じだった。
(暫くは、今のままで様子を見ていこうと思っています。幸いにも、『WAKA』のCM制作も一段落していますので、この際ですから、ノンビリさせたいですね)
(そうね。そうしてくださる)
 浅茅和歌子の言葉の端はしには、安心しきった表情を窺わせる様なニュアンスを感じさせた。冬来は、これ以上の話をしても埒が明かないので、
(課長、ひとまずの報告ですが、細かい事は、今度、お会いいたした時に、お話申し上げたいと思います)
(結構です。そうして下さると、助かるわ)
 冬来は、ここでは、これ以上の話をしたくなかった。もし、それを続けると、浅茅和歌子が、自分には届かない、どこか遠くへ行ってしまうような気がしたからである。得意先ではあるが、同志と思っていた、いや、それだけではない。そんな感情をはるかに超えた存在の浅茅和歌子が、自分の目の前から消えて行くかも知れない。それが、怖かったのだ。
 冬来自身が、これほどまでに、明匠の仕事に打ち込むのは、O&Uのことだけではない。浅茅和歌子が賭ける夢を実現させたいと、思っていたからだ。日常の中には見せなかったが、これぞという時の、あの激しさは、目的がない限り出てこないエネルギーだ。浅茅和歌子は、それに向かって突き進んでいる。中味が何であるかは分からないが。
(課長、十億円の追加出稿、ありがとうございました。無事に、手当てが出来たと安心いたしました。これからも、よろしくお願いいたします)
(冬来さん、あなたには感謝しております。『WAKA』の導入についての皆さんの活躍には、目を瞠っておりました。それを、リードした冬来さん。あなたがいなかったら、こう、上手く行かなかったと思っています。本当に、ありがとうございました)
(課長、止めて下さいよ。何か、別れの時の言葉みたいじゃないですか)
(あら、そうだったわね。ごめんなさいね)
(導入が上手く行ったら、次は、浸透です。そして、定着。まだまだ、先は長いですよ。これからも、叱咤激励をお願いしますよ。課長)
(はい。こちらこそ、よろしく、ね)
 浅茅和歌子の優しい言葉を聞いて、冬来は電話を切った。だが、一抹の不安が脳裏を掠めたのは、何かが起こる前兆のような気がした。


〜13〜

 岡山県の立地条件は不思議なところだ。夏の台風シーズン。上陸する台風の雨や風は四国の山々を越え、瀬戸内を横断する時は、かなりの勢力を落としている。そのために、九州・四国各地のように、深刻なダメージを受けることがない。一方で、冬の雪のシーズン。山陰地方が大雪で大騒ぎをしていても、中国山地を越える頃には、こちらも、夏の台風と同じで、勢力を落としており、雪の洗礼を受けることが少ない。
 そんな岡山県の倉敷市。大原美術館を中心に、美観地区には塗屋造りの町家や白壁の土蔵が立ち並び、今でも生活が営まれている。
 そもそも、江戸時代、倉敷は、幕府の直轄地「天領」で、綿花や米の集散地として栄えた。明治に入ると、紡績業の雄、倉敷紡績所が代官所跡に設立され、産業と観光の両輪が回転する元になった。
 瀬戸内に目を転じると、大小数々の島々が点在し、朝日の柔らかい陽射しの中に海面の色合いが、次第に青から紺へと変貌する様は、見ているだけで、心が癒される。一方で、夕日の日の入りは、夕暮れの演出者としては、なくてはならない。穏やかな漣を染める朱の乱舞は、それこそ、幻想的である。自然が織り成す美の競演は、海、島、空の登場で、一段の趣を醸し出している。
 瀬戸内海国立公園随一の景勝地-鷲羽山は、児島-坂出間の瀬戸中央自動車道の児島インターチェンジから、南へ車で十分ぐらいのところにある。緑濃い花崗岩の岬が、瀬戸内に突き出し、備讃瀬戸から塩鮑諸島にかけての、島と空、海、それに、瀬戸大橋のハーモニーの絶景を目の当たりに出来る、瀬戸内海国立公園有数の展望地である。
 その鷲羽山へは、山頂の東側から登るのが普通になっている。車でレストハウスの付近の駐車場まで行き、後は、徒歩で展望台に向かう。だが、山頂へは西側からのアプローチもあるのだ。地元の人でも、めったに行かないその道は、今では野道になっているが、以前は、下津井電鉄が運行していた頃は、結 構、賑わっていた。
 下津井中学校からこの道を上っていくと、瀬戸内海や瀬戸大橋の雄大なスケールに圧倒される。
 素人カメラマンの藤原理は、カメラ機材など二十キロほどのバッグを担いで、西側の道を通って、山頂を目指した。鷲羽山駅の駅舎跡から、下津井電鉄の廃線路を整備した「風の道」を行き、やがて山道を上り始める。五分ぐらい歩いただろうか、その間、誰一人として出会う人がいない。殆どの人は、車でいくのだろう。
 途中、四国の坂出に真っ直ぐ伸びる瀬戸大橋の主塔が、眼前に迫ってくるような、スケール感を見せ始める。暫し、それに見とれてシャッターを押す。鉄の塊である人工美が、瀬戸内の多島美、空間美にこれほど、マッチングするとは、藤原は思わなかった。だが、こうして、それを眼前にすると、圧倒的な景観美が藤原のシャッターを押すスピードを上げた。
 道行く中に、緑のシャワーが快い。立ち木は、国立公園ということで伐採されないのか、所々では、景色を奪っている。
 藤原は、木々を通して垣間見える、瀬戸内の景様をカメラに収めようと、少し屈んでレンズを覗き込んだ。枯れ木を避けるようにカメラを移動すると、何か、異様なものが被写体となって写り込んだ。何だ?好奇心に誘われて、拡大モードで、もう一度覗き込んだ。腕のようなものが飛び込んできた。花崗岩の上に腕が伸びている。少しずつカメラをずらすと、仰向けになっている男の顔が、はっきりと確認できた。
(男が死んでいる。なんで、こんなところで)
 藤原は、息を飲み込んで、自分を落ち着かせようとした。息を整えて、携帯電話を取り出し、110を押した。

 高島先生は、岡山県の玉島市に来ている。第三十五回「日本心身医学会」の総会に参加するためだ。ここのところ、小中学生だけでなく、高校生や大学生、社会人になっても、切れる子供や大人が多くなっている。それに加えて、企業に成果主義が蔓延しているためか、二十代の後半から三十代、四十代のサラリーマンに、神経症やうつ病が流行っている。
 チームや組織への成果ではなく、個人の成果になっているため、スキルやテクニック、モチベーションの連続性が断たれ、自分さえ良ければいいのだ、という風潮が社内に蔓延っている。今流の仕事感のDNAが受継がれていかないのだ。
 今までならば、進入社員と生活をともにして、会社にルールや挨拶。それに、仕事の段取りやチームワークでの作業など、お互いが尊重しあって進めていくことの重要性を教えるのだが、最近では、成果主義の弊害が、それを拒んでいる。
 そんな環境のもと、医学界としても、時代の気分が大きく変貌する中で、それらに対処するために、心身医学会が中心になって対応することになった。会期は三日間の予定だ。
 高島先生も、最後の日に、『錯誤修正と態度の変更』という演題で、講演をすることになっていた。
 昨夜、最終の新幹線で、岡山に来た。雨上がり、それも夜の市内は静かだった。タクシーで、ネオンの灯りに余韻を感じながらも、予約してある市内のホテルに着いた。これで、一安心だ。シャワーを浴びるまもなくベッドに横になった。前の日は、十一月の中旬に出版する、《心と脳》の最終校正をしていたため、殆ど寝ていなかった。本の内容は、心の所在は何処にあるのか、遺伝子分析を突き進めて、心とか人間の意志とかが判断できるのか。それが、どういう意味を持つのか。その辺りを、分かりやすく解説している。
 ぐっすり眠れたのか、翌朝の目覚めは何時になく良かった。カーテンを開けると、秋のやさしい陽光が、部屋の中に吸い込まれてくる。ビルの間に見え隠れする、消えているネオン群を見ていると、昨日は気がつかなかったが、その数の多さに愕いた。前の日、徹夜をしていなければ、それこそ、一杯やりにいっていたかも知れない。
 テレビにスウッイチを入れて浴衣を脱いだ。地元のアナウンサーによるワイドショウの画面が立ち上がり、レポーターの声が響いてくる。浴衣は、後で、たためば良いと思い、いつもの様に、身だしなみを整えるために洗面所に向かった。クローゼットの前が浴室兼洗面所だ。着替えをクローゼットから引き出すと。目線をドアに移した。木製のドアの入り口に新聞が差し込まれていた。旅行でも、今回のような出張でもそうなのだが、東京を離れると、都市のつまらない権威から脱することが出来る。都会人の、なんでも、一番だと思っている驕りから、距離を置くことが出来るのだ。上下左右の感性が、四方八方、十六方へとウイングを拡げる。そんな中に、地方の新聞を読むのも楽しみの一つだった。
 高島先生の新聞の読み方にはルールがあった。一面や政治面は、余り興味がなかった。新聞は、なんと言っても社会面である。そこには、事件や事故、世の中の庶民の、動きの良悪は別にしても一番反映されている。目覚めは良かったが、まだ、完全には機能していない。いつも、持ち歩いているロート目薬をさして、パチパチと瞬きをすると、爽快感が湧きあがって来る。液の浸透感が、何とも気分を変えてくれる。
 早速、例によって、社会面から目を通す。活字の印字タイプと組み方が違うため、違和感があって読みづらい。が、丁寧に記事を読み漁っていく。地元の記事が半分を占めている。フッと、ある記事のところで、視線の流れを止めた。
 その時、部屋にノックがあった。
「ルームサービスです」
 という、声が聞こえた。そうだった。昨日、チェックインした時に、朝食をルームサービスで頼んでいた。高島先生にとっては、朝の一時間は貴重だった。出来るだけ時間を有効に使いたいと、思っていたので、レストランでの朝食を取ることは、なるべくしないようにしていた。
ドアを開けると、二十歳前後の男の子が、制服に身をただし、
「おはようございます。ルームサービスです」
「ご苦労様、そこに置いてくれる」
「はい。分かりました」
 窓際のテーブルに、セットを置くと。
「お客様は、お医者様ですか?」
 と、聞いて来た。
「あぁ、そうですよ。どうして?」
「いゃ、今度の大会に大勢の方が、岡山に来ていらっしゃるので、お客様も、そうなのかな。って、思ったのです」
「そうか。そうなのだよ。今日は、これから、講演をするのだよ」
「講演ですか。すごいですね。それが、終った後は、どうされるのですか?」
「その後、どうするかな?特に考えていないけど、観光でもしようかな」
「観光ですか?それだったら、鷲羽山は避けた方が、良いですよ」
「どうしてなのかな。あそこは、瀬戸内の景観が素晴らしって、聞いているがね」
「それは、その通りなのですが、今日から数日は、止めた方がいいですね」
「なぜ?だい」
「お客様は、まだ、新聞をご覧になっていませんよね。当然、テレビも」
「あぁ、まだ見ていないよ。ちょうど、新聞を読み始めた時に、君がノックしたからね」
 高島先生は、鏡台と冷蔵庫に挟まれたテレビを見やった。画面上は、先ほどのレポーターが、地元農家の野菜づくりの取材をしていた。お百姓さんが遠慮気味にレポーターの質問に答えている。
「私も、新聞を瞬間、見た時に、気になった記事があったのだよ」
「そうですか。実はですね。鷲羽山で、殺人事件があったのです。昨日の午後、五十前後の男の人が死んでいたのが、発見されたのです」
「ふ〜ん。そうですか」
「下津井電鉄が廃線になったからは、めったに地元の人でさえも、余り行き来しない野道の先を、少し瀬戸内側に下りた所に、立ち木に蔽われた花崗岩があります。瀬戸内海の風貌が美しい所です。そこに、男の死体があったそうです」
「七時半からニュースがあるのかな?」
「えぇ、十一チャンネルのS放送を見てください。確か、二十六分からですが、地元のローカルニュースがあるはずです。多分、そこで、放送されると思います」
 高島先生は、直ぐに、チャンネルをNHKから、S放送に変えた。少しイケメンのアナウンサーが、ちょうど、出てきた。短い時間であったが、鷲羽山の事件の続報を含めて放送した。それによると、捜査本部を児島署に置いて、本格的に捜査を始めたとのことだ。
 う〜ん。児島署といえば、と、先生は、腕組みをして、ウエイターの顔をジッと見た。少しの間、視線の行き先を遊ばせると、
(そうだ、彼が、いる)
 と、大きな声をあげた。
「君、彼がいるのだよ。彼が」
 先生は、右手の親指を掲げて、ウエイターに向かってウインクをした。された方のウエイターは、何がどうなっているのか分からずして、ただ、唖然としていた。
「いろいろ、ありがとう。君のご忠告を受けて、講演が終わった後、鷲羽山に行くことにするよ」
「えぇ、本当に行くのですか?」
「勿論、現場が私を呼んでいるのだよ」
 そう言って、ルームサービスのサンドウィッチを頬張ると、手元の新聞に改めて、目を通した。
 
 午後一時からの、高島先生の講演は、二時には終わった。会場は、四百人ぐらいの聴衆が集まっていた。毎日の新聞紙上を賑わしている、少年たちの事件。中高年の自殺。年齢の上では、条件が違うのだが、かかってくるストレスは、次元こそ違うが、両者にとっては、心を傷つけることでは同じだった。両親、特に男親の期待に応えなければならない、プレッシャーは、本当に少年少女の心を蝕むのだ。
 瞬間の判断で、見境もなく家に火を点ける。幼子や年寄りが、逃げ遅れて巻き添えを食うことになる。親は、子供に対して、自分を超える人になって欲しいという、勝手な錯覚を持つ。子供は、あるところまでは、それに応えようとするが、無理を積み重ね、やがて爆発する。そんな事件が、あまりにも多すぎるのだ。
 先生は、そんな世の中を見ていて、人間の尊厳性、意味ある意志を持つことの重要性。態度の変更による人間性の復活。そういう話をまず、医者自身に聞かせ、三分診療ではなされない医療の質を変えるために、医者自身が態度を変更すること、そうすることで、患者さんや親御さんの安心感・信頼感を保持させようと、訴えた。試行錯誤で終わるのではなく、そこまで行ったら、錯誤修正することの重要性も併せて、講演内容に入れた。
 終了後、参加している先生に囲まれた。いろいろ、質問を受ける。その都度、丁寧に返事をする。あっという間に時間が過ぎていく。気ばかり焦るが、仕方がない。段々と、先生を取り囲む輪が大きくなって来た。時計を見ながら気にしていると、
「先生、遅くなりました」
 講演会場の受付に屯していた集団に、二階の階段を上がった所から声が聞こえて来た。
「遅れて申し訳ありません」
 と、言いながら一人の男が、汗を拭き拭きやってきた。
 先生も、片手を挙げて、それに、気楽に応じる。
「よぉ、元気か」
「ご無沙汰です」
「久し振りだね。見たところ、元気そうでなによりだ」
「いゃ、先生こそ一年半ぶりですが、お元気そうですね。安心いたしました」
 高島先生は、ここぞとばかりに、
(ちょっと失礼)
 と、先生を取り囲んでいる、参加者の皆さんに声をかけると、足早にして、男に近づいた。
「ちょうど、いい時に来てくれたよ。先生方からの質問攻めにあって、どうしようかと思っていたのだよ」
「いいじゃないですか。高島先生の医療に対する考え方や、患者さんに接する真摯な態度を、浸透させるのには絶好のチャンスでよ」
「いゃ、それは、分かっているのだが、今日、これからの事を考えると、そうもしていられないのだよ」
 周囲にいる、参加者は、二人のやり取りをジッと見ている。
「先生、お電話での件、ご報告をいたしたのですが、これでは出来ませんね」
「ちょっと待っていてくれないか。今日、お集まりの皆さんに、お詫びをしてくるよ」
 そう言って、また、集団の輪に戻って行った。
(皆さん、申し訳ありませんが、この後、外すことが出来ない用事がありますので、ご質問の件は、メールでいただけますでしょうか。必ず、ご返事をさせていただきます。それから、先だって、上梓いたしました《実存心身医学入門》を送らせていただきます)
 参加者の先生方も、高島先生の人柄を良く知っているのか、肯きながら握手をして、その場を離れていった。これで、一安心だ。ゆっくりと、事件について話を聞くことが出来る。
 今朝、ホテルのウエイターから聞いた、鷲羽山での殺人事件が気になって仕方がなかった。なんとなく、引っかかるものが感じられた。テレビにニュースや新聞からの情報だけでは、全体を把握できない。と言って、警察に行って聞くわけにもいかない。思案に耽っていた時に、フィに、思い出した。
 岡山県警に、今は、良くなっているが、先生の患者さんがいたのだ。ちょうど、今から三年ぐらい前か。東京のMブックセンターの医務室に、突然、患者さんが飛び込んできた。それが、岡山県警の警部、渋江俊彦だった。
 東京に三日間の研修に来ている際に、ちょっと時間が余ったので、Mブックセンターに本を探しに来ていた。その時である。急にふらっとして、心臓の脈が飛び、鼓動がおかしくなった。冷や汗がどっと溢れ、口中は乾いて、目の前が真っ暗になった。一緒にいた同僚は、救急車を呼ぼうとしたが、店の係りの人が、七階の医務室に運んでくれた。
 高島先生は、他の患者さんの診察中であったが、それを中断して直ぐに見てくれた。やさしく、安心するように声をかけた。衣服を緩め、血圧、心電図、レントゲン写真、血液検査と、手早く検査を行った。
 心電図は、典型的な期外収縮の波形を見せていた。血圧も不安感があったせいなのか、上が百七十、下が百だった。四十歳にしては、かなり高いが、この状況では仕方がなかった。レントゲンは肥大部分もないし、奇麗な写真であった。仕事も忙しく、三日間の東京での研修も、結構、強行軍であったため、心身ともに疲労困憊だった。
 気が張っていた中に、ちょっと安心して気が抜けた時に、自律神経-交感神経のバランスが崩れたのだろう。ここ、数ヶ月の生活の様子を話すと、先生は、期外収縮の態様を丁寧に説明した後、緊張と弛緩の波を、上手くコントロールすることと、予期不安を取り除く算段を取る事を教えてくれた。
 軽い精神安定剤の処方だけで心配はいらない。と言われ、安心して岡山に帰ったことがあったのだ。それ以来、先生との付き合いが始まり、東京に来ると、必ず、先生の所に顔を出していた。先生は渋江の東京の主治医であった。
 渋江警部は、先生をホテルのラウンジに案内すると、コーヒーを頼んだ。挨拶もそこそこに、
「先生、どういうことなのですか。鷲羽山の事件に興味を持たれたのは?」
「いろいろ、気になることがあったのだよ」
 と、言いながら、東京-根津神社での事件や京都、金沢の捜査状況を手短に説明した。渋江は、興味深そうに聞いている。だが、根津神社の事件と、今回の鷲羽山の事件とが、直接結びつくのかどうか、疑問に思っている。いくら先生でも、ただ単に、先生の勘だけで何か、関係があると言われても納得は出来ない。
 高島先生は、そんな渋江の内心を知ってか、
「警部、事件で亡くなった方はどういう人だか、身元は判明しているのですか?」
「えぇ、宮城県は松島の不動産屋です」
「不動産屋?それって本当ですか」
「それが、何か?」
「いゃ、先刻、説明した、東京で行方不明になっている男の職業が、不動産の仕事をしているのですよ」
「なんですって?」
「これは、奇遇ということでは済まないでしょう」
「そうですね。ということは、先生はそこまで見通して、鷲羽山の事件とのことを関連付けたのですか」
「警部、人間の勘というものは、年がら年中当たるものではないのですよ。ですが、ここぞと、いう時が必ずあるのですね。だからこそ、勘という現象が残っているのですよ。それで、今回の件ですが、これは、何かあるなと思ったわけです」
 渋江警部は、先生の話を静かに聞いていた。
「警部、次いでですが、その方の名前を教えてくれますか」
「はい、分かりました。桜井将夫です。年齢は、五十二歳です。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「被害者の詳細については、宮城県警-松島署に問い合わせ中です」
「なるほど。その他に何か、参考になるようなものはありましたか?」
 高島先生は、渋江警部の次の言葉を待った。
「先生、それがですね。和歌が一首と、《ウコンの後ろ》と、いう文字が手帳の切れ端に残っていたのです。
「何ですって?《ウコンの後ろ?》それが、あったのですか?」
「そうです。かなり、奇麗な文字で書かれていました」
「警部、ウコンについては、詳しい事をお話いたしますが、その和歌一首の内容はどんなものだったのですか」
 高島先生は、少し興奮の度合いを上げていた。古屋謙次郎の隠された部分から発見された《山陽百人一首》。石川県小松市の高校の国語教師、石本の殺人事件。《ウコンの後ろ》という、あのダイング・メッセージと考えられる言葉。それに加えて、和歌が一首。
「先生、多分、瀬戸内を題材にした歌なのだと思われますが、〈碧藍の 境に点在 緑島 白き軌線に 夏の来ぬ見ゆる〉という、歌がありました。私は、和歌や短歌には素養がないのですが、これは、五、七、五 七、八になっていますね」
「それは、いいのですが、この歌、どこかで見たことがありますね」
「本当ですか?」
「確か、つい最近のことですよ」
 先生は、首を傾げながら天井を仰いだ。ここ数日の間で和歌と言えば、古屋謙次郎の、あおの《山陽百人一首》しかない。そうだ、あの歌集の中にあったのだ。
「警部、その歌は、東京で行方不明になった、古屋謙次郎の持っていた、二十六年前の歌集《山陽百人一首》に載っている一首ですよ」
「何ですって。すると、鷲羽山の事件は、やはり、東京の根津の事件と関係があると言うことですか」
「当然、そういうことになりますね。被害者の桜井将夫は、今は、仙台-松島で不動産の仕事をしていますが、もしかしたら、もともとは、山陽-こちらの出身かも知れませんね」
「この歌の意味は、どういうものなのですか?」
「いゃ、事件とは直接、関係ないと思いますが、私なりに解釈すると、冒頭の碧藍は、碧い空と瀬戸内の海の藍との接面のことを言っているのでしょう。そこに点在する島々に向かって、一筋に流れる舟の軌跡を見ていると、夏が来た、ことを実感するという、雄大なスケールのことを、言っているのではないですかね」
「なるほど。それはそれで、良く分かりますね。で、先生、その《山陽百人一首》って歌集は、何ものですか?」
「それは、多分、山陽道を中心にした、和歌好きの人たちが集まって作った現代版の百人一首だな。その仲間内に、古屋謙次郎も入っていたし、石川の石本二郎、それに、桜井将夫も入っていたのではないかな」
「そうすると、先生の勘が当たったということになりますね」
「全てを勘で、解決してもいいのだが、大事な事は、事件全体を俯瞰的に見る想像力が、そうしたのかもしれませんよ」
 先生は、少し強気な態度を見せた。それから、話を続けた。
「警部、被害者の手帳の切れ端に書かれていた、もう一つの問題、《ウコンの後ろ》の件だが、これが、なかなか難敵なのだよ」
 高島先生は、あらためて、今度は《ウコンの後ろ》について、説明をした。
 健康食品のウコン、高山右近、京都御所の右近など、それにまつわる話をまとめた。
「先生、その《右近の後ろ》ですが、ダイング・メッセージって言っていましたが、一体、何を意味しているのですかね」
「そこなのだよ。それが、分かれば、事件の解決に一歩前進したことになるのだが」
「さすがの先生もお手上げですか」
「いゃ、お手上げじゃないのだが、相手が強すぎるのかな」
「その相手-犯人はどんな顔をしているのですかね」
「分からんが、警部、あなたも考えてみてください。この《ウコンの後ろ》を」
「先生、東京の被害者も、ここ岡山の被害者も地元から、わざわざ、出向いていますね。これは、どういうことなのでしょうか?」
「そのことも考えてみましたが、もし、《山陽百人一首》に、関係があるとすれば、今回のように岡山や広島で事件が起きても不思議ではないのですが、東京の場合は、石川県の人間が東京まで出てきている。脈絡を無理して付ける事はありませんが、いづれにしても、犯人は、被害者の地元の地図には明るくないので、意識的に、自分のテリトリーに呼び出して、犯行を行ったと、いう事でしょう」
「そういうことになりますね」
「警部、東京-本富士署の清澄警部と連絡を緊密に取り合って、情報の交換と捜査の進展について、共有化した方針を持って方がいいとおもいますよ。私からも、清澄警部に連絡をしておきます」
「お願いいたします。そうしましたら、直ぐに連絡を入れたいと思います」
「早い方がいいですね。それから、古屋謙次郎、石本二郎、桜井将夫の《山陽百人一首》に纏わる関係。さらには、それ以外のメンバーがいる訳ですから、他の同人との関係も洗った方がいいと思いますよ」
 先生は、周囲を見回した。それから、再び、渋江警部に、
「警部、二十五年前の、この同人誌のメンバーの中に何があったのか?そして、その後、そのメンバーはどうなっているのか?彼らの消息を追う必要がありますね」
「了解です。私も、遅まきながら、そうしようと思っていました」
「そうして下さい。この事件の鍵は、二十五年前にありそうです。その時に何が起こったのか。この三人も含めて、それ以外の人にもヒントがありそうな気がしますね」
「そうですね。心して、調べてみます」
「それから、鷲羽山の現場に、これから行けませんか?」
「それは、無理です。今は、通行止めにしてありますし、もうすぐ、日が落ちます。風景を見に行くのならば、別の日にした方がいいですね」
「いゃ、無理を言う心算はありません。ちょっと、現場を見たかっただけです」
「本当に、迷惑な話です」
「なにが?」
「瀬戸内でも、最も美しい風景が見られる鷲羽山で、殺人事件を起こすなんて」
 渋江警部は、そう言って、顔色を曇らせた。
 根津神社殺人事件は、新たな殺人事件を道連れにして、新しい展開を見せることになった。

 十月も半ばを過ぎると、秋冷の候に相応しく、日毎に朝晩は涼しくなってくる。天高く馬肥ゆる秋。食べ物も美味しいし、夜の眠りも深くなる。夏の疲れから体調を維持・管理するには絶好の季節となった。
 由美子は、朝起きて鏡を見るたびに、自分が大人の女性に変貌してゆく様子が、手に取るように感じられた。父親に対する心配事を念頭に置いているせいか、生きる力が体中から発散している。漲るエネルギーが、由美子の細胞を内面からも外面からも、活性化している。肌の張りも、心の張りも、十分に充満している。
 何時もどおりに、仏壇に手をあわせてから家を出た。母親の幸恵は、二階のベランダで洗濯物を干している。口には出さないが、内心は心配でしょうがないのだ。謙次郎が行方不明になって一ヵ月が過ぎた。杳として、音信は全くない。携帯電話からの連絡も、事件直後に松島へ行くとのメールだけだった。
 不安で仕方がないのだが、由美子を信頼して、全ての事を任せきりにしている。
 今日も、Mブックセンターの医務室に清澄警部と、古屋由美子が参集することになっている。高島先生が岡山から帰京して、直ぐに、二人へ連絡した。鷲羽山の殺人事件は、新聞の西日本版には掲載されているが、東京版には載っていなかった。連日の数多ある事件の中で、全国に流す情報であるかどうか、取捨選択して、記事が配信されているため、全ての事件を把握できるわけではない。
 もし、あの時、高島先生が学会の用件で、岡山に行っていなかったとしたら、根津神社での事件と関連性があるにもかかわらず、危うく、見過ごすことになっていた。被害者は、明らかに、《山陽百人一首》に関係があった。現場の傍に、置かれていた手帳の切り端に、和歌一首と〈ウコンの後ろ〉のメッセージ。
 根津、岡山と七百五十キロ離れた二つの事件が、結びついたのだ。古屋謙次郎が大事に持っていた、二十五年前の和歌の同人誌《山陽百人一首》に、今度の事件の全貌があることは間違いない。石川の石本二郎もそれに関連していたはずだ。桜井将夫、古屋謙次郎そして、石川二郎、この三人の関係が明らかになれば、事件の一端が浮き彫りになる。突破できる糸口になるはずだ。その件についても、清澄警部から報告があることになっている。
 いつもなら遅れてくる由美子が、今日は、先に医務室に入ってきた。例によって明るい調子だ。
「先生、岡山での学会は、いかがでした」
「いゃ、盛況だったよ。最近の世相を反映して、特に、中学生や高校生の事件が余りにも多いので、学会としても、その対策に本格的に乗り出すことになった」
「そんなことは、先生が前から言っていたことじゃないですか。なんで、今頃になって、そんなことのコンセンサスが必要になったのですか?」
「由美君、学会と言うものは、そういうものなのだよ。皆で、一緒に渡れば怖くないから、その時を待っているのさ。強い船には、乗りたがる習性があるからね」
 高島先生は、学会の行き方を百も承知で、言ってのけた。何時もなら、学会発表時に、演者に対して、痛烈な質問攻めをするのだが、ここのところ、意識的にそれを控えて、温和しくするようにしていた。学会での、高島先生の意見や考え方が、かなり浸透して、地方の大学や公立病院の中にシンパシーを感じる人たちが、増えてきたからである。
「遅れました。すいません」
 清澄警部が、恐縮しながら、もう一人を引き連れて入ってきた。
「先生、先日はどうもありがとうございました」
 岡山県警の渋江警部だ。厳つく肩を震わせて、大きな態度で当たり前のような顔を見せた。
「どうしたのですか。渋江警部。出張ですか?」
「出張?あぁ、そうです。例の事件、先生のご忠告を受けまして、本富士署と合同チームを作りました。その件で、岡山から出てきました。これからも、先生にも、いろいろ、ご指南を仰ぎたく思いまして」
「そうですか。随分、強力なメンバーが揃いましたね。これなら、犯人逮捕も時間の問題でしょう。皆さん、いいですね」
 傍にいた由美子は、三人のやり取りを聞いていたが、その内に、脹れ面を先生に見せて、
「先生、こちらの厳つい方、ご紹介していただけます」
 渋江は、突然の由美子の催促に、目を白黒させた。身体は、百キロを超える巨体だが、気配りは細やかだった。由美子の視線を受けると、
「どうも、ご挨拶が遅れましてすいません」
 と、恐縮した。
「あっ、そうか。これは失礼いたしました。由美君は、初めてだったね」
「渋江警部。こちらの妙齢の淑女は、古屋由美子さん。二十三歳。一人身」
「一人身?あぁ、独身ですか?こんな奇麗な方が。世の中の男の見る目はどうなっているのですかね。もったいない」
「先生、また、余計な事を言って。いやなのだから」
「それよりも、ちょっと待ってください。古屋って、あの古屋さんとは、関係があるのですか」
 それを聞いて、清澄警部が、首を縦に振って、
「そう、先ほど説明した、行方不明になっている、古屋謙二郎さんのお嬢さんです」
「やっぱり。そうでしたか」
「厳つい警部さん、そんなに暗くならないで下さい。そんな顔を見ていると、私まで、暗くなってしまいますよ」
 由美子は、この場の雰囲気を考慮して、明るく振舞っている。折角、関係者が集まったのだから、何とか知恵の結集をはかり、事件を解決したいと思っていた。
 「早速ですが、清澄警部、石川の石本さんの件、報告してください」
 高島先生が、清澄に催促をした。先日の会議の時に、古屋謙次郎の家から「山陽百人一首」が発見され、これが、今度の事件のヒントになると、推測した。
 石本二郎は、石川県の小松市で県立高校の国語の教師をしている。その伝から、もう一度、彼の過去を洗ってみる必要があった。
「先生、石本は、国語の教師をしながら、部活の顧問をしていました。それが何と、〈和歌愛好会〉の顧問でした。部員の数は、四十名というのですから、大したものですよ。週に、一日か二日ですが、生徒の作品を見ていたそうです。余り、表面に出るような事はなく、自分自身の作品も発表していないのですが、その指導力は、県下でも有名だったらしいです」
「それで、出身はどちらだったのですか?」
「香川県の坂出市です」
「坂出市?」
 先生が聞くと、
「そうなのですよ。鷲羽山の事件の桜井将夫も、現住所は、宮城県の松島で不動産屋をしていましたが、そもそもの出身地は、岡山でした。ですから、被害者の二人は、瀬戸内海を挟んで、非常に近いところに住んでいたことになります」
 渋江が、清澄警部の話を引き取って、桜井の事を交えながら言うと、高島先生は、
「そうか、〈山陽百人一首〉って言っても、必ずしも山陽地区とは限らないのだ。対岸の四国が関係あっても、何の不思議なことはないね」
「そのとおりです。岡山のテレビ局は、それこそ、対岸の香川県でも見ることができますからね」
「なるほど」 
 先生は、一瞬、感心した表情を見せたが、すぐに、清澄警部に向かって言った。
「警部。あぁ、清澄警部。石本二郎の家からも、(山陽百人一首)が、出てきたのですか?」
「えぇ、おっしゃる通りです。彼の書斎は二階にあるのですが、一番奥の書棚の裏側に、A四の封筒に入っていました」
「それは、謙次郎さんのものと、全く一緒でしたか?」
「まったく、一緒です。同じものでした」
「それで、警部、いゃ、渋江警部、桜井将夫の方は、どうでしたか?」
 先生は、二人の警部を前に、やりにくそうだった。
「はい。昨日、内の刑事が松島の自宅に行きました。彼の部屋を隈なく捜索したところ、押入れの天井裏から、全く、同じものが発見されました」
「ということは、三人は、完璧に、この線で繋がったことになりますね。犯人も、当初の推定どおり、(山陽百人一首)の関係者ですね」
 高島先生の話に、他の三人は、静かに肯いた。
「先生、桜井の歌は、分かったのですが、謙次郎さんと石本の作品は分かりませんね。どんな歌なのですかね」
「そこなのだよ。作品はペンネームで出されているから、どの歌が、誰の作品かは、推量出来ない。そこが、弱いところだね」
「普通でしたら、同人の名簿があっても良いと思うのですが、なぜか、いくら探しても、出てこない」
「私も、気になったので、何回も父の部屋を探しましたが、終ぞ、発見出来ませんでした。申し訳ありません」
「由美君が謝る事はないよ。考えられないけれど、作らなかったのかも知れないよ」
 由美子は、先生の顔を見ると、ニコって笑って、Vサインを出して見せた。先生は、それに応えるように、同じ仕草を由美子に返した。事件の展開は予想もしなかった方向に進んでいるが、三人の男の関係が明らかになった以上、犯人に一歩近づいたと、言っても良かった。
「渋江警部、謙次郎さんは、なぜ、石川に行き、松島に行ったのか。それぞれ、石本に会い、桜井に会うためだった。それは分かった。だが、犯人からの情報がどのルートで来たのかは、未だに、分かっていない。彼の周囲で、記録に残るものを全部調べたが、何の兆候もなかった。それから、石本だが、彼の場合も同様に、通信手段を全て洗ったが、やはり、どうしてなのか分からなかった。そこでだ、桜井の場合はどうだったのかな」
 渋江は、岡山から東京に来る前に、その事を聞いていたので、松島に行った刑事に調べるように指示を出しておいた。岡山での桜井の行動は、全くと言っていいほど、つかめてなかった。その上に、松島への情報の流れも調べなくてはならなかった。
「先生、その件につきましては、松島に行っていた刑事から報告がありました。それによると、電話の通話記録や携帯電話の記録、FAX,その他考えられる手段を全部当たりましたが、どれも、該当するものはありませんでした」
「そうすると、謙次郎さん、石本と、全く同じだということですね」
「そういうことです」
 清澄警部が返事をした。
「どういうことなのですかね。先日来、なぜ、彼等が行動を起こしたのか。あらゆる観点から探っているにもかかわらず、情報源が分からない。何が、彼等を動かしたのか。こんなことって、あるのだろうか」
 高島先生は、犯人がどんな方法で彼等を誘き寄せたのか。石本が石川県から東京根津へ。桜井が、仙台は松島から岡山県へ。そして、古屋謙次郎の不可解な動き。多分、その全てに、同じ方法が使われている。それを見破ることが出来ていない。一体、どうやって三人と連絡を取ったのか。考えれば考えるほど、あり地獄に落ち込んで、もがき苦しむ結果になってくる。
 清澄警部と渋江警部は、お互いに顔を見合わせ、先生のジレンマを共に、味わうかのような表情をしている。一方、由美子は、二つの殺人事件で、父親がどんな役割をしているのか。今度は、その父親が殺される番ではないのか。不安で、いたたまれない気分になっている。
 事件は錯綜しているが、解明に一歩近づいた事は確かだった。


| エブリディ・ラーニング(小説)TOPにもどる |