HOME > エブリディ・ラーニング > 小説 > 9週目


「映像の逆訴」


〜17〜

 「先生、いる?」
 例によって、相変わらずの軽快な調子で、古屋由美子がMブックセンターの医務室に飛び込んできた。五階のフロアから、二階上にあがるだけなのだから、何も息を切らして来ることもないのに、今日も、また、いつものパターンで演技している。だが、そうすることが由美子らしいのだ。
 連日、患者さんで一杯の診察室は、その日は、珍しく患者さんはいなかった。傍に座っている白衣の天使、看護師さんの麻友さんもすることがないのか、手持ちぶたさにしている。お茶を飲んでは、お煎餅を口に運びバリバリ音を立てている。タイミングが良かったのか、由美子の顔を見ると、嬉しそうに笑顔を投げかけ、袋をそのまま持って来て手渡した。
「由美子さん、食べて。おいしいわよ。お茶も淹れるわね」
 そう言うと、入り口の右脇にある勝手口に行った。由美子は、麻友さんの後姿を見送って、診察室に入って行った。静かだった。先生はいるはずなのに、部屋の中には見当たらなかった。シャウカッセンは、スウィッチが入ったままになって、室内の光源になっている。デスクの上には、聴診器がキチンと置かれていた。すると、白いカーテンの向こう側にある診察ベッドの方から、微かな寝息が聞こえてくる。そっと、近寄ると白いカーテンを少し右側にずらした。仰向けになって寝ている寝顔が愛くるしい。良く見ると、高島先生は童顔だ。眉毛の部分が薄くて、頬っぺたが真丸。まるで、マシュマロみたいだ。
 麻友さんの、(お茶がはいったわよ)という声に誘われて、由美子が、医務室の方へ戻ろうとした途端、勢い余ってブリキのゴミ箱を蹴ってしまった。〈ガチャン〉突然の音に驚いて、先生は目を覚まし、飛び起きた。
「おいおい、どうしたのだね。吃驚するじゃないか」
「先生、ごめんなさい。私がやったの。でも、わざとじゃないのよ。ごめんなさいね」
「由美君じゃ、しょうがない。勘弁してあげるか」
 高島先生は、そう言いながら身を起こすと、スリッパを履いて医務室に入ってきた。目の周りを擦ると、冷蔵庫から冷たいお絞りを取り出し、顔を力一杯拭った。さっぱりしたらしく、由美子の手からお煎餅の袋を取り上げると、中から一枚取り出した。
(バリ、バリ)と、音を立てて食べ始めた。
「あぁ、先生、私の分まで食べちゃ駄目よ。まだ、一枚も食べていないのだから」
「そうか。そうか。ごめん。でも、まだ、あるから。もう一枚いただくかな」
 高島先生は、由美子の発言を意に介さず、もう一枚袋から取り出して、わざとらしく音を立てながら口を動かした。
「由美君、今日は何か?用事があって来られたのですか?」
「う?ん、別に。特にあるわけじゃないのですが、今、四階のイベントスペースで、明匠製菓の『小倉百人一首展』を催っているでしょ。例の「山陽百人一首」のこともあるから、先生と見に行こうかな、って思ったの」
「由美君、と言う事は、先生を誘いに来たのですか?デートをしたいのですね」
「何をバカな事、言っているのですか。たかだか、同じビルの別のフロアで催っている、イベントを見に行くだけなのに。先生、何を考えているのですか」
 由美子のあまりの言い草に、先生は、ただただ、唖然とするだけだった。
「先生、デートをしたいのだったら、そんな寝ボケ眼で誘わないで、それなりの姿格好でお願いしたいわ」
「はぁ、その通りです。これまた、失礼いたしました」
 高島先生は、顔を顰めながら、おどけた表情を見せて、舌をベロッと出した。
「ところで、先生。どうなの?行くの行かないの?どっちなの?」
 由美子が、先を追い詰めると、
「行きますよ。行きますって。由美君のお誘いを断るわけないじゃないですか。そんな事をしたら罰があたりますよ」
「そう。それじゃ、行きましょうか」
「由美君、ちょっと、待ってください。そんなに、慌てなくてもいいでしょう。それよりも、その後、謙次郎さんについては、何か情報はないのですか?」
「先生、情報がありましたら展示会に誘うよりも、その事を先に報告していますよ」
「あぁ、そうでした。そうですね。その通りでした。ウッカリしておりました」
 高島先生は、またまた、舌をだした。そして、続けた。
「行きましょう。四階へ。由美君のお供をさせていただきます」
 高島先生は、由美子の右手を握ると、
「麻友さん、四階」
 何時もの癖なのか、麻友さんにクールに行き先の階数を言うと、医務室を出て行こうとした。
「先生、ちょっと、待ってください。そんなに強い力で引っ張らないで」
 そんな由美子の言葉に耳を貸そうともしないで、ギュッと握った手をそのままに、医務室を出て行った。

 Mブックセンターの四階は、イベントスペースになっている。広さは三百平方メートル。日本橋の中心地にあるため、デパートなどのイベントや展示会とは異なった趣向で、差別性のあるイベント・コンテンツを提供していた。勿論、主だった商売のベースは書籍販売だから、それに関連したイベント展示を行えば、それにつれて、当然、書籍の販売に結びつく。例えば、世界絵本展や育児教育展などが、その典型的なイベントだった。
 そういう意味では、今回の『小倉百人一首展』は、格好のコンテンツだった。一階の書籍売り場の中央に、万葉集や古今集などの勅撰和歌集から、現代の和歌に関する書籍を一同に集め、大コーナーを作った。四階にも、百人一首の特設の売り場を設けて、来店客へのサービスに努めている。
 高島先生と由美子は、社員用のエレベータで七階から四階へ下りて行った。四階の会場へ向かうドアを開けると、人いきれのムッとした雰囲気が二人を迎えた。来客用のエレベータは満員の状況で、ホールも人出で溢れていた。こんな中で、会場に入って、ゆっくりと展示物を観ることが出来るのだろうか。そんな思いで会場に入った。場内はホールの状態と比較すると益しだった。和歌という特殊な世界だけに、早くから来ている人たちは、落ち着いた環境の中で、静かに干渉したいのだろう。それにしても、後で聞いたのだが、あの人だかりは、明匠製菓の製品サンプリングを貰うために、集まった女性の嬌声が原因だったらしい。
 会場内は、第一番の天智天皇から、百番目の順徳院までの和歌が額装され、傍に、作者の人歴と解説が、事細かに展示されている。恋歌四十三首。女性歌人が二十一人。僧侶が十五人。それに、親子などの人物交流図に、枕草子の作者清少納言をはじめ、紫式部や和泉式部日記などについても、詳細な解説を添えて、展示してあった。それに加えて、会場のセンターには、歌留多遊びのコーナーがあり、小学生らしい子供たちが、説明員の話を聞きながら歌留多に興じている。その傍にいる、着飾ったお母さんたちは手持ちぶたさなのか、視線を天井やら窓外に投げかけていた。
 会場の外と内では大違いだ。サンプル欲しさのおばちゃん連中と和歌の世界を鑑賞したい人達とのギャップ。同じ四階というフロアでの出来事。エレベータホールと展示会場との、たった、二十センチの間隔が、両極端の環境を作っている。
 高島先生は、一番の天智天皇のコーナーに立った。

(秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ)

 この歌は、小倉百人一首第一番の和歌として有名である。天智天皇といえば、中大兄皇子と呼ばれた皇太子時代に、藤原鎌足と「大化の改新」を行い、一方で、弟の天武天皇の奥さんを奪ったことでも有名だった。誰もが、社会科?日本史で習ったはずである。
 高島先生は、高校時代、古文の授業で習った百人一首。中でも、この最初の句は忘れることが出来なかった。何時もリズムをつけて、(天智天皇、秋の田の・・・。持統天皇、春過ぎて・・・・)そんな調子で覚えたものだった。もっとも、和歌と作者が一致するのも最初の数句で、後は、殆ど覚えていなかった。こうして見ていると、どの和歌が人気になっているのか、分かるのではないかと思い、会場を見回した。
 確かに、百カ所の中で数箇所に人溜りが出来ている。それだって、人歴と解説を読んだ上で、ポピュラーな作者に集まっているのは仕方がない。女性歌人では、紫式部や清少納言、それに、持統天皇。男性歌人では、紀貫之、阿倍仲麻呂、在原業平の所が人波に溢れている。
 由美子は、高島先生とは離れて、自分ひとりで会場内を勝手に歩いている。父親の謙次郎が『山陽百人一首』の同人になっているのに、彼女は、和歌に関しては全く素養がないようだ。それぞれの歌人の前に立っては、人歴と解説を見比べながら、額装の和歌を繁々と眺めている。そうこうしている内に、何かを発見したらしく、先生のところに飛んできた。
「ねぇ、ねぇ先生。ちょつと。先生」
「何ですか?そんな大声を出して」
「ちょっと、こっちへ来て」
 由美子は、先生の手を強引に引いて、最後の、つまり、百番目の「順徳院」の額装の前に連れて行った。先生は、やっと、十番目の「蝉丸」の和歌に差し掛かった時のことだった。
「ねぇ、先生。これって面白いでしょう。見てくださる」
「由美君、和歌に面白いって言うものは、ありませんよ」
 高島先生は、由美子が指差した順徳院の和歌に見入った。

(ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある むかしなりけり)

 順徳院は、後鳥羽上皇の第三皇子で、承久の乱に敗れて佐渡に流された。和歌のセンスは一流で、藤原定家について和歌を学び、鎌倉時代の秀でた歌人の一人である。
「由美君、この和歌のどこが面白いのかね」
「あら、先生。だって、最初の、(ももしきや)って、笑っちゃうでしょ。(ももしき)ですよ。先生は、可笑しいとは思わないのですか?」
「由美君、そんなことを言ったら、順徳院に失礼ですよ。(ももしき)の意味は、あなたの考えているようなものではありませんよ。ここで言っている(ももしき)は、解説で説明されている通り、漢字では、(百敷)、あるいは、(百石城)と書くのだよ。字儀は、多くの石で出来た城という意味があるのだな。つまり、これは、京都御所のことを指しているのさ」
「えぇ、そうなのだ。知らなかった。相変わらず、先生は、博学ですね。何でも知っている。さすがに、長生きをしているだけあるね」
 由美子は、何時もの通り、先生の物知りに感心をした。
 高島先生は、珍しく恥ずかしそうな表情を見せた。
「由美君に褒められると嬉しいですよ。俄然、やる気が出てきますから。でも、これは、ここの解説に書かれている事を、そのまま言っただけですよ」
「そうだったの?知らなかった。でもいい。私は、先生に補給するガソリンと同じで、エネルギー源ですからね。そして、先生は、エンジン。私がいないと何も出来ないと、言うわけ。分かっているでしょう」
「はい。その通りです。先生は、由美君がいなくてはなにも出来ません。ここに、改めて誓います」
「よろしい。それで、いいのです」
 由美子は、ご機嫌だった。漫才みたいな掛け合いを、いとも簡単にしてくれる。何の躊躇いを感じないで、由美子に合わせてくれる。本当は、偉い先生なのに、微塵たりともそんな素振りを見せない。誰に対してもそうだから、門前ならぬ、Mブックセンターの医務室前は、患者さんで溢れることになっている。
 高島先生は、突然の由美子の誘いで、調子が狂ってしまった。今さら、十番目の「蝉丸」のところに戻って、順番通りに見る気にはならなかった。それに、会場内の人出も、時間が経つにつれて増えており、ゆっくりと見る雰囲気ではなかった。中央部の歌留多遊びのコーナーも、満員の人だかりだ。説明員の面白、可笑しいトーク術にお客さんも大喜びで、ドンドン輪が拡がるほどの賑わいを見せている。
 高島先生は、このままいると、人波に襲われるかも知れないと、由美子に声をかけないで、出口に向かおうとした。あらためて、人の少ない時をみはらかって、また、来ればいい。忙しない中での鑑賞は、自分の性にも合わないし、雰囲気に合わないと思っていた。
 人ごみを分け入りそのまま進んで行くと、明匠製菓の商品展示と液晶モニターが置いてあるコーナーに行き当たった。白いテーブルクロスに『WAKA』ブランドの製品が、所狭しと商品ごとに並んでいる。チョコレート、クッキー、ケーキ、それにソフトドリンクが展示されている。その横には四十二型の液晶モニターが、『WAKA』のテレビコマーシャルを流していた。それぞれ十五秒と三十秒の四タイプの内容だった。
 高島先生は、テレビを見ないのが自分流の美学だった。タレントの名前を覚えるのも面倒くさいし、ヴァラエティー番組には、全くと言っていいほどに興味を感じなかった。強いて言えば、ニュース番組を観るぐらいだった。本来であれば、心身科の医者をしているのであれば、日常の生活の中で、テレビぐらいは観なければいけない。なぜなら、患者さんとテレビは切っても切れない関係にあり、娯楽の第一番にテレビが上げられているからである。そうと知っていても、なかなか、その気にはなれなかった。その代わりに、新聞や雑誌には目を通しており、活字からの情報には抜かりがなかった。
 高島先生は、何気なく、テレビを観ていた。映像は美しいし、音楽も素晴らしい。珍しくモニター画面に引き入れられた。展開が変わり、海のシーンが現れた。良く観ていくと、それはどうも、瀬戸内海らしい。瀬戸大橋も遠望できる中に、名前は知らないが女性タレントが演技をしている。どうやら、チョコレートとソフトドリンクのようだ。瀬戸内を背景にそのタレントが、昔を思い出すかのように、佇んでいる。
 すると、そこに、和歌がインポーズされた。商品名が『WAKA』なので、それに合わせたようである。

(緑風 渡る瀬に泣く 幼子を 抱き上げあやす 両手への重み)

 高島先生の目が点になった。モニターの前にで、まるで金縛りにあったかのように、動けなくなった。ジッと液晶モニターを見つめている。
(日本のこころをを愛すあなたに、『WAKA』)
 止めのナレーションが静かに響く。すると、違うタイプのコマーシャルが流れ始めた。シーンはやはり、瀬戸内海のようだ。秒数が過ぎると、やがて、同じように、和歌がインポーズされた。

(碧藍の 境に点在 緑島 白き軌線に 夏の来ぬ見ゆる)

 またしても、高島先生の双眸はモニターの虜になっている。そのまま、黙って続きを見た。またもや、瀬戸内海が出てくる。そこにも、和歌が入ってくる。

(瀬戸内の 霧に埋もれし 見る影は 幾重の島に 降れる五月雨)

 一体、これはなんなのだ。ここに出ているものは、全てが、あの『山陽百人一首』に載っている和歌だ。なんで、あの『山陽百人一首』の和歌が、明匠製菓のコマーシャルに使用されているのか。中でも、

(碧藍の 境に点在 緑島 白き軌線に 夏の来ぬ見ゆる)

 は、鷲羽山での桜井将夫の死体の傍に置かれていた和歌である。多分、この和歌の作者は、桜井将夫本人のものに違いなかった。その和歌が、明匠製菓のコマーシャルに出てくる。『WAKA』と、いう商品の重要な役割を果たしているのだ。これは、何か意味があるのだ。普通に考えて、和歌に関するものであれば、何も『山陽百人一首』の和歌でなくてもいいはずである。古今集でも、新古今集でも、千載和歌集から選んだ和歌でもいいのだ。それよりも、それこそ百人一首でも良かった筈である。だが、このコマーシャルはそうなっていない。『山陽百人一首』でなくてはいけない、何か理由があったのだ。
 高島先生は、暫しの間モニターTVの前から離れなかった。そこに佇み、腕を組んで沈思黙考した。足裏に磁石がついたかのように動かなかった。会場内は、次第にお客さんが増えてくる。あのエレベータホールの賑わいが、会場内まで押し寄せていた。それでも、高島先生は姿勢を崩さなかった。
 由美子が見かねて、先生の傍らにやってきた。
「先生。どうしたの?達磨さんみたいに動かなくなって。先生」
 由美子の強い言い方で、やっと、われに返ったようだ。
「由美君、直ぐに、清澄警部を呼んでくれないか。それから、渋江警部にも連絡をして」
「先生、そうは言っても、渋江警部は岡山ですよ」
「いいから、直ぐに、東京へ来るように言ってください」
 由美子は、先生のあまりの迫力に、これはただ事ではないと、漸く理解したらしい。例によって、満員になりつつあった会場内の人ごみを掻き分けて、七階の医務室に向かった。
 高島先生は、会場内を見回し、この展示会の責任者を探し始めた。若い人が五、六人いたが、多分彼らでは埒があかないと思って、もう一度受け付けの周辺に視線を移した。遠目で良く分からなかったが、偉そうな集団が受付からエレベータホールに向かっていくのが見えた。すぐに、その後を追った。
 混雑がひどくなっていきたが、彼らは、エレベータホールで下り行きが来るのを待っていた。見ていると、四人のうち、三人がどうやら、帰りそうだった。残りの一人は、会場内の係員に較べると、年齢はいっているし、それらしき雰囲気を持っている。その男は、丁寧なお辞儀をして三人を見送った。すると、そのまま踵を返して、受付の方に戻ってきた。
 高島先生は、足早にその男に近づいて行った。あれから、一時間も経っていないのに、混雑の度合いはスピードを上げている。肩や腕にお客さんの抵抗を受ける。とに角、その男を捕まえなければと、必死になった。
 その男は、グレイのダブルのスーツを身につけていた。顔つきも精悍で、隙がなさそうに見える。いかにも仕事が出来そうな感じがした。傍についた時、男は後ろ向きになっていた。それで、仕方なく軽い調子で肩を叩いた。男が振り向いた。
「あの、すいません。私は、Mブックセンターの医師で、高島と申します。突然で申し訳ありませんが、ちょっと、お尋ねいたしたいことがあるのですが」
「あぁ、そうですか。どうぞ」
「ありがとうございます。もしかして、あなた様は、この展示会の責任者の方とお見受けしたのですが。もし、そうであるのなら、お聞きいたしたことがありまして。よろしいでしょうか?」
「えぇ、どうぞ。私でお答えできることであれば、なんなりと、お尋ねください」
「ありがとうございます。では、あそこのモニターテレビに映し出されているコマーシャルは、明匠製菓さんのもですよね」
「えぇ、そうですが。それが、なにか?」
「あそこに流されている、コマーシャルの件で、お伺いいたしたいのですが。よろしいでしょうか」
「どうぞ。何なりと、聞いてください。あれは、非常に評判が良く、このままで行くと、今年のACC賞や広告電通賞も取れそうですよ。それで、なにをお知りになりたいのですか?」
「あの、ここでは、なんなので、七階の医務室の方に来ていただければと、思うのですが」
「あぁ、そうですか。ちょっと、待ってくださいね。係りの者に、断ってきますから」
 そう言うと、男は、高島先生の傍を離れると、控え室になっている奥の会議室に向かった。見送った後姿は、姿勢が良く颯爽とした歩き方だ。応対一つ見ても丁寧だし、中々の人物だと、高島先生は思った。五分もしないうちに戻ってきた。
「あぁ、どうもお待たせいたしました。それから、私自身の紹介もいたしておりませんでした。すいません」
 そう言いながら、名刺入れを取り出し、改めてお辞儀をしながら名刺を手渡した。
「どうも。あらためて、ご挨拶をさせていただきます。私は、明匠製菓さんの広告を担当させていただいております、O&Uの冬来と申します。よろしくお願いいたします」
「冬来さんですか。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
 お互いに、挨拶を終えると、Mブックセンターの七階、医務室に向かった。二人の後姿は、混雑したエレベータホールに消えていった。


 Mブックセンターの医務室に、高島先生は、O&Uの冬来部長を連れてきた。当然のごとく、古屋由美子も一緒だった。本富士署の清澄警部には、由美子が連絡を取ったが、石本二郎の件で、石川県の小松市に出張中とのことだった。岡山県県警の渋江警部との携帯電話での連絡がとれなかったので、伝言だけを残した。今日のところは、事件の核心に触れる内容になるのだが、取敢えず、ここにいる三人で、話を進めることになった。
 高島先生が、まず、由美子を冬来に紹介して、すぐに、本論に入った。
 九月の中旬の根津、十月の岡山・鷲羽山での殺人事件。その両事件に、二十五年前に発刊された『山陽百人一首』が、関係していること。その同人仲間の間に、何か、事件があったのではないかということ。京都の喫茶店「右京」では、東京出身らしい女性と男。その女性が金沢に現れ、由美子の父親、古屋謙次郎と一緒だったこと。そして、最後に、「ウコンの後ろ」という、ダイングメッセージらしき文字。これまでの出来事をポイント良く説明した。その上で、冬来に質問した。
「冬来さん、今、お話したことが、事件のあらましです。この殺人事件の鍵は、どうやって、被害者を現場である、東京都と岡山に導き出したのか。それと、動機です。二十五年前の『山陽百人一首』に関係している事は分かっていましたが、今日、あの会場で、『WAKA』のコマーシャルを見た時、私の心臓は激しく震えました。血の気が引いて金縛りに遭ったように、身動きする事をさえ出来ませんでした。
 そこでなのですが、冬来さん。あのコマーシャルが出来た経緯を教えていただきたいのですが。実際に、『山陽百人一首』の中の三首が使われています。一首は、桜井将夫の

(碧藍の 境に点在 緑島 白き軌線に 夏の来ぬ見ゆる)

 です。この和歌が記されたメモが、死体の傍に置かれていました。先ほども、申し上げましたが、同人はすべてペンネームで書かれていましたので、本名が分からないのです。だが、この一首は、多分、桜井将夫のものだと思われます。残念ながら、後の二首については、分かっていません。その二首は、

(緑風 渡る瀬に泣く 幼子を 抱き上げあやす 両手への重み)

(瀬戸内の 霧に埋もれし 見る影は 幾重の島に 降れる五月雨)

 ですが、やはり、瀬戸内海をテーマに、歌われたものですね。私は、思うのですが、「碧藍の」、と、「瀬戸内の」二首は、瀬戸内海の情景を歌たったものですが、真ん中の、「緑風」は、それら二首とは可なり趣をかえて、父親だとは思いますが、泣いている幼いわが子を抱き上げ、愛情を込めて高い高いと天に向かって持ち上げているシーンが、ひしひしと伝わってきますね。
 もしかして、この和歌に隠された秘密があるように思われます。この和歌には、子供を思う、父親の優しさがあります。そして、この和歌に接した子供が、父親の愛情に思いを馳せたとしたら、どうなるでしょうか?二十五年前のある出来事が、今回の殺人事件を起こし、それに、この和歌が関連しているように思えるのです」
 冬来は、黙って聞いていた。高島先生の話は、もしそうだとしたら、これは大変なことである。確かに、このコマーシャルは冬来のチームが作ったものである。クリエイティブにいる雨貝が、その窓口に立って進めてきた。アイディアは、その雨貝と明匠製菓とでつめてきたものである。
「冬来さん、先ほど、申し上げましたが、この事件の鍵は、動機と被害者の殺人地への移動が問題になっています。両事件の被害者の周囲を幾ら洗っても、彼らが東京と岡山に行った理由が分からなかったのですが、私は、このコマーシャルを見て、その理由が氷解したように思います。多分、被害者は、地元にいてこのコマーシャルを見たのではないでしょうか。人を動かすには、動かすような理由とメディアが必要です。私達は、これまで事務所用の電話や携帯電話、FAXなどの通信手段を調べてきましたが、結果的には、何も出てきませんでした。それもそのはずですね。まさか、コマーシャルに彼等を誘き寄せるメッセージがあったとは、思いませんからね」
「ちょっと、待ってください。先生から、いきなりそのような事を言われましても、私自身、どのようなお答えをしたら良いのか、困ってしまいます。ここは、一度、社に戻って、関係者を呼んで調べてみたいと考えます」
「それは失礼いたしました。その通りです。突然の申し出で、混乱をさせてしまったかも知れません。何の事情もご存じない冬来さんには、酷なことでした。申し訳ありません」
「いぇ、こちらこそ。あまりに突然でしたので、ちょっと、驚きました。私達も、コマーシャルを制作した者として責任がありますので、十二分に調査をいたします。それから、この事は、当然、警察も動いているのですよね」
「そうです。殺人事件ですから、東京と、石川県、宮城県、それに、岡山県の警察が捜査をしています。いまの状況は二進も三進も行かないのが現況です。今回のことは、手懸りとしては、最強なものです。これで、事件が解決に向くだろうと思います。一挙に解決したいですね」
 冬来は、高島先生の言葉を聞きながら複雑な思いをしていた。このコマーシャルは、会社のクリエイティブディレクター、天貝が担当したのだが、クライアントの担当者は、誰あろう、浅茅和歌子が直接担当していたのだ。仮に、高島先生の言っていることが本当だとしても、それは、雨貝はともかく、浅茅和歌子が関わっているとは思えなかったし、思いたくもなかった。警察も動いているとのことだ。ここは、自分自身で浅茅和歌子に確認する必要がある。天貝にも事の真相を確かめなくてはならない。
 そうしない内に、ここでは、迂闊な事は言えない。一度、話を引き取って時間を稼がなくてはならない。今、浅茅和歌子は休暇中だ。後、四日しないと東京には戻って来ない。それまでに、彼女と何とか連絡を取る必要がある。彼等より先に浅茅和歌子に会い、事の真相を確認するしかない。警察権力が先に知ったら、恐らく、全国手配をすることになるだろう。だが、それを確認するのは、自分達O&Uと明匠製菓の宣伝部である。
「高島先生、この件についてですが、私どもの調査が済んで、事の真相が明らかになるまで、警察には報せないでいただけませんか」
 冬来は、一点、浅茅和歌子のことだけを考えて、そう言った。
 それを聞いていた由美子が、声を荒げて言い返した。
「冬来部長、それは出来ません。私のお父さんの命がかかっているのです。一刻も早く、事件を解決しないと、父も殺された二人と同じ運命を辿ることになるのです。ですから、この三ヶ月の中で、初めて事件を解決する糸口が出てきたのですから、警察も、私たちと一緒に動いて欲しいのです」
 由美子の発言も当然のことだ。父親の過去に何があったかは分からないが、肉親の愛情としては、至極当たり前のことだ。時間が経てば経つほど、父親の生命の保証は出来なくなるのだ。
「そうですね。分かりました。高島先生、これから会社に戻り、早速、調査を始めたいと思います。今週中にご報告できるように、いたします」
「よろしくお願いいたします」
 冬来は、高島先生の言葉を背に受けて、医務室を後にした。


 冬来は、タクシーで品川の会社に向かっていた。日本橋のMブックセンターから品川に行くのであれば、JRの、山の手線か京浜東北線で東京駅から乗るか、都営地下鉄線の日本橋駅から品川まで行けばいいのだ。だが、冬来は、少し考える時間が欲しかった。Mブックセンターの高島医師の突然の指摘に対して、対応の方法を考えていた。
 O&U社内に対しては、今度の件での問い合わせについては、自分が窓口になる。万一、明匠製菓に問い合わせが行った場合には、広報と宣伝部の志水係長が対応するように算段する事を考えていた。
 冬来は、四年前、浅茅和歌子が名門、明匠製菓の宣伝課長になって、健康食品の開発、それに、今回の『WAKA』の発売を急いだことに、何となく違和感があった。銀座のバア、「式部」のマスターの話を聞いていてもそうだった。マスターは、浅茅和歌子は、こと和歌に関しては、相当の歌人だったらしい。ことを言っていた。
 そうだ、あの時、それに関する話をした時、彼女は、その事は忘れた、見たいな事を言っていた。今日の、Mブックセンターのイベントもそうだ。まさに、浅茅和歌子の最も得意分野の範疇だ。だが、あのイベントを開催することに、何か目的があったのだろうか。彼女のメリットは何なのか?
 こうして考えて行くと、『WAKA』]のキャンペーンは、浅茅和歌子の個人的な都合で進められて行ったのかもしれない。冬来は、警察や高島先生が、真相を突き詰める前に、何とか自分の力で浅茅和歌子の秘められた部分の解明を、したいと思った。
 銀座から新橋、車の渋滞が日常現象で続いている。中央通りもブランドショップが入るビルのラッシュが空間を埋めて行く。景気の後退は、すでに過去のことだ。企業活動の復活は生活者に、消費活動を促進し、その象徴が銀座にブランドショップを誕生させている。
 冬来は、会社に戻ると白木部長を呼んだ。事の仔細を彼だけには、事前に話しておかなければならない。チームの一大事だからだ。この問題の進展の仕方によっては、大きなダメージを受けることもあるのだ。だが、それよりも先に、白木から至急会いたいとの連絡メモが、デスク上に置いてあった。冬来が連絡すると、待っていましたかのように白木が飛んできた。
 二人は、会議室に入った。冬来の説明を聞く以前に、白木から話があった。
 白木は、背広の内ポケットから封筒を取り出した。宛先は、冬来部長となっている。それを、なぜ、白木が慌てているのかが分からなかった。
「冬来さん、これ、雨貝からの手紙です。部長宛に来ています」
「それが、どうしたって、言うのかね?」
「いゃ、雨貝は、この三日間出社していないのですよ。それも、無断ですよ。クリエイティブの連中が心配している時に、部長に対しての、この手紙ですから。勘ぐれば、雨貝に何かがあったのではないかと、思いたくなるでしょう」
「それで、なにを心配しているのかね」
「だって、三日間会社に来ないということは、家にも三日間居ないという事でしょう。彼には、二人の子供がいるじゃないですか。子供をほったらかしにしているのですよ。黙っていられますか」
 白木は、強い口調で、冬来に対して言い返した。
「そうだ。あいつには男の子が二人いる。それを、ほったらかしにしているとしたら、それは許せん」
「そうでしょう。だから、言っているのですよ」
「分かった。それで、その手紙を見せてくれないか」
 冬来の催促に白木は、雨貝からの封書を手渡した。封筒の表面には見慣れた雨貝の筆跡で、冬来部長様と書かれていた。鋏がなかったので、封筒の閉じこんだ部分を強引に破った。中の手紙を取り出す前に、雨貝は、どんな気持ちを伝えようとしていたのか。手紙に書かなければ、その気持ちを伝えられないことなのか。なぜ、言葉で言えないのか。会って、この顔を見ながら言えなかったのか。冬来は、そう思いながら、手紙を開いた。
 手紙は、ワープロではなく、雨貝の自筆で書いてあった。それと、もう一枚の書面が内封されていた。それは、良く見ると退職願いであった。そこには、

(この度、私、雨貝 良平は、一身上の都合で退職いたしたくお届けいたします)

 と、退職届けとしては常識的に書かれていた。冬来は、それを読んだ後で、(あの野郎、人の気持ちも知らないで、良くこういう事を書ける)と思いながら、白木のいる前で退職願を破ってしまった。細かく切り刻むと、自分のポケットに紙屑を押し込んだ。白木は、えっ、何って思ったが、長年付き合ってきた冬来が、そうしたのだから、これは訳ありだなと感じて、黙って、冬来の仕草を見守った。
「おい、白木君。雨貝の退職届けの件、二人だけの秘密だぞ。余計なこと、誰にも言うなよ。いいな」
 そう言うと、雨貝からの手紙を拡げ、目を通した。

(冬来部長、天貝です。妻 淑子の件では、いろいろご心配をお掛けいたしまして、すいませんでした。部長の一つひとつの指摘、全くその通りでした。仕事に夢中になり家庭を顧みず、我が家は、完全に母子家庭の状態でした。
 淑子には、本当に申し訳なく思っております。彼女に代わって、私が二人の子供を育てて行くつもりです。
  淑子の自殺の真相は、彼女の遺書を見るしかありませんでした。そこには私が知りえない淑子の秘密があったのです。だが、私は、淑子を守らなければなりません。従って、遺書の中味を全て話すわけには行きません。
 ただ一つ、言える事は、会社の業績が悪化して、社員の収入が極端に二割も減ると、生活そのものの防衛策を考えなければなりません。1千万円貰っている人でさえ、二割も減ると、住宅ローンと子供の教育費の捻出に、相当苦労するものと思います。
 現実に、我が家でもそうでした。1千万円も貰っていませんが、淑子は、年々、減っていく収入を見て、やりくり算段に神経を使っていました。残業は規制される。ボーナスは、以前の半分。社長をはじめ、役員や執行役員は、既に、子育ては終わっているし、住宅ローンも完済しています。だから、彼らには、我々の家庭のように、やりくりの算段をする必要がないのです。
 彼らの年収の決め方がどうなっているかは知りませんが、三年、五年と続いてくると、我々の家でのやりくりも限界に来ます。わが社の社員だけが、いい思いをすればいいとは思いません。ですが、既存クライアントの維持・拡大と新規開拓だけは、やり通さなければなりません。部長だって、既存のクライアントを守るために、新規を取るために提案を続けています。クライアントの繁栄が、その先にいる生活者の繁栄に繋がり、やがて、わが社の繁栄にも繋がってくるという、連鎖を築いて行くことに、わが社の先輩は注進してきました。その連鎖を続けなければならないのに、今の経営幹部は、そんなことにはお構いなし。冬来部長の頑張りも、結局は、既存クライアントの数字を落としてしまうために、全てが、その穴埋めに使われ、折角の努力も報われていません。ことほど左様な状態にあるにも関わらず、何も手が打たれていないのが現状です。
 もっと言えば、彼ら幹部の想像力の貧困さに憤りも感じます。我が家もそうでしたが、淑子の家庭でのやりくりは大変だったと思います。前にも記した通り、彼等幹部の家庭のやりくりと、我々みたいな家庭とのやりくりには、大きな差があるのです。まさに、格差があるのです。それを、そういう所に考えを及ぼそうともしない。自分たちには関係のないところには、何の関心を示さない。そんな役員や執行役員は、会社にとってはガンって言ってもいいと思います。
 同僚の奥さんもそうだったと思いますが、二割以上の年収が減れば、生活そのもののあり方を変えなければいけないし、奥さん自身も家庭の一助のために働くようになるのは当たり前のことです。ですが、彼ら経営幹部は、自分たちの努力の姿を何も見せない上に、利益が出ないのだから仕方がないという態度で、社員に向かってくることが許せないのです。基本的な経営のセンスがないのにも関わらず、経営者面しているのが許せないのです。
 冬来さん、淑子は、私の不甲斐なさを知って働きに出ました。こんな時代、淑子が働けるところはあったのでしょう。が、でも、時給が七百円とか八百円ですよ。彼女は、手っ取り早く稼げるとこを選択しました。あいつが、そんな仕事を選んだ事を知った時の、私は、気が狂いそうになりました。その内容は、淑子の名誉を守るために、例え、冬来さんでも言うわけには行きません。いゃ、冬来さんだからこそ、尚更、言う訳にはいかないのです。それだけは、勘弁してください。私の愛した淑子のことですから。
 冬来さん、部長は、いつも「イメージと構想」という事を、我々に言っていました。それに習って言えば、わが社の幹部は、常に、あらゆる分野に「想像力を働かせる」という、センスを持たなければなりません。それに気がつかないために、会社の全てが負のスパイラルに陥っているのです。
 私は、評論家ではありません。会社の事を観察者のような立場で言っているわけではありません。このまま、O&Uにいて、彼等経営幹部のために働こうとは思いません。今までの同僚の皆さんや部長とは、仕事を続けて行きたいと思いますが。ここまで来ましたので、これからは、自分の好きなようにさせてもらいます。ご迷惑をお掛けいたしますが、我儘な雨貝の科白と、お許しをいただいと存知ます。
 また、ご連絡をさせていただきますが、ただ、コーポレート局にいる米沢執行役員だけは、絶対に許しません。淑子からの復讐を、私が代わって必ず、実行いたします)

 雨貝の手紙はここで終わっていた。会社への思い、奥さんへの想いが綴られていたが、なぜ、彼が、そこまで思うようになったのか。冬来には理解できた。だからって、拙速な判断をしてはいけないのだ。一時の感情だけに左右されていけない。そう思って、冬来は、同封されていた退職届けを破り捨てたのだ。だが、最後に記されていた、コーポレート局の米沢執行役員を許さないということは、何を指しているのだろうか?あの蛭みたいな米沢と天貝の奥さんとの間に、自分たちの知らない関係があったのか?気にかかる一文だった。
「冬来部長、雨貝からの手紙。何て書いてあったのですか?」
 白木が聞いて来た。天貝とは十六年も付き合っているのだから、心配するのは当然だった。だが、冬来は、自分との個人的な問題にすり替えようとした。
「あぁ、大したことじゃないよ。俺との問題だよ。そんなに心配する事はないさ」
「そうですか。それだったらいいのですが」
「それよりも、白木君。君も部長になったのだから、やはり、自分のカラーを出さなくてはな。俺の後を継いでの部長だから、何かとやり辛いかも知れないが、それは、君のカラーを出すこととは、何にも関係のないことだ。会社は、それから、クライアントは、冬来とは違う君からの新しい提案を待っている。部員にしても、そうだ。私と、同じような事をするのであれば、部長を代わる意味がない。そう、思うだろう。ただ単に、年齢が来たからって、物理的に部長ならなければならないみたいな印象を与えてはまずいぞ。
 クライアントに対するサービスの質を上げる。そして、わが社にとって、しっかりと利益が確保できる。相反するようなこともあるかもしれないが、我々の持分を認識して、君の「イメージと構想」を打ち出さなければ、本社の連中にチャンスを与えることになる。
いいか。白木君、良く聞けよ。本社の営業が、本社の内勤を使って出すアウトプットよりも、君を中心としたO&Uのチームが、本社を工場として活用するアイディアを提供して、それ以上のアウトプットを提案するのであれば、彼らに負ける事は絶対にない。だからこそ、常に、ヒューマン・コンタクトと、アイディアを用意するぐらいの感性が、今の君には必要だと思うよ。部長になったことに酔ってはいけないのだよ。部長になったことで何が出来るのかを、いつも、考えるようにしないとな。それだけ、責任があるという訳さ」
 冬来は、部長になったことで有頂天になりそうになっている白木に、釘を刺した。白木は、冬来の話を神妙に聞いていた。今の時点で、O&Uの稼ぎ頭は、明匠製菓だ。そこの担当部長となれば、プレッシャーは強いし、社内外から注目もされる。それだけに、二百五十人という、限られたリソースを有効に使うざるを得ない。次のステップの仕事を生むためには、本社の内勤の人たちを工場として、使うしかないのだ。サービスの質を落とさないで、グループの力を最大限に活かすことが出来れば、後は、湯水が溢れるごとく、アイディアを提供すれば良いのだ。
「ところで、白木くん。雨貝の他に、今回の『WAKA』のTVコマーシャルについて、分かっているのは誰かね?」
 冬来が尋ねると、白木は困ったような様子を見せて、押し黙ってしまった。
 別に、正直に言えば済む事を、何か隠しだてようとしているように見えた。
「なんだよ。どうしたのだ。別にいえない事はないだろうに」
「いゃ、冬来さんには言っていませんでしたが、『WAKA』のCMについては、雨貝にしかわからないのです」
「えっ、何で?前から言っていたじゃないか。必ず、ダブル・ワーキングにしなくてはいけないと」
「勿論、分かっていました。でも、この件については、明匠の浅茅課長が、担当は雨貝一人でいいって、言うものですから、全てを彼に任せていました」
「そうすると、この件については、天貝に聞かないと分からないという訳か」
「申し訳ありませんが、そうなのです」
「じゃ、仕方がないな。雨貝の携帯に電話をしてくれないか」
 冬来は、そう指示すると、自分の携帯電話を取り出し、十一桁の番号を押した。相手を呼んでいるようだが、反応がないようだ。白木も、雨貝宛に電話をかけていた。こちらも、何の反応もない。
「冬来さん、雨貝は出ませんね。留守電も出来ませんよ。どうします?」
「どうしますって?繋がらなくては仕方ないだろう。後でもいいから、何回も連絡を取るようにしてくれないか。それで、もし取れたら、私の携帯に連絡をするように言ってくれないか。頼んだよ」
「分かりました。それにしても、あのコマーシャルに何かあったのですか?」
「いゃ、そうではないのだ。賞の件で問い合わせがあったから、事前に知っておこうと思ってさ。別に、心配することではないから」
 白木には、そう言ったが、本心はそれどころではなかった。白木に雨貝と連絡を取れと言って、自分は、浅茅和歌子の携帯に連絡を入れたのだ。一刻も早く、彼女と連絡を取りたかったのだ。どんなことがあったのかは知る由もないが、いずれにしても、警察が動いている事は確かなことだ。早く、この事を報せてあげなければならない。
 Mブックセンターの高島先生の話によると、二人の男が殺されている。それには、どうも、『WAKA』のTVコマーシャルが絡んでいるらしい。どんな理由があって、そのようなことになったのか。この件については、浅茅課長が絡んでいる。そうとしか思えない。それに、天貝が手助けをしている。二人が一緒になって作り上げたコマーシャルだ。もし、浅茅課長が関係しているとしたら、過去に、一体何があったのか。あまりに過去を語りがらない、浅茅和歌子の過去の秘密。隠された二十五年前。何があったのか。
 冬来は、白木に後の事を頼むと、急ぎ足で会社を出た。ビルの前でタクシーを掴まえると銀座に向かった。その道すがら、浅茅和歌子との今までのやり取りを思い出していた。そういえば、彼女のビジネスウーマンとしての才能は素晴らしかった。判断と決断がタイムラグなく行われる。見通しが立って、次の一手が確実に打たれている。この四年間、ミスジャッジは殆ど見られなかった。だが、時たまではあったが、仕事上では考えられないような顔を見せることが何回かあったことも事実だ。
 あの時もそうだった。『WAKA』のプレゼンの前。冬来が、愛宕神社に願掛けに行った時のことだ。浅茅和歌子は、前の日にあれだけ冬来と飲んだにもかかわらず、朝早く、神社にやってきた。冬来は、三社コンペの勝利を確信するために、お参りに行ったのだが、彼女は違っていたのかも知れなかった。『WAKA』のキャンペーンの成功は当然のことだが、実は、全くそれとは異なった目的があったのか知れない。
 突然、本殿の後ろに彼女の存在を知った時、冬来にすると、自分たちの勝利を祈りに来てくれたのかと、思ったが、今になって想像すると、そうではなかったのだ。実は、彼女自身も願掛けに来ていたのだ。そして、それが、今回の事件のことなのかも知れない。そう思うと、浅茅和歌子の行動が、手に取るように分かってくる。キャペーンの立ち上がりを急いでいたし、コマーシャルから新聞、雑誌、交通広告、インターネット広告に至るまで、彼女の主導で進められていた。突然、降って沸いたように、テレビスポットの追加も四地区で行われた。
 タクシーは、銀座電通ビルの前で止まった。交差点を渡って、銀座電通ビルの裏側ある、ビルの一階の店に入っていった。バアー「式部」だった。七時を過ぎたばかりだったので、店内にはお客さんがいなかった。前もって電話をしていたので、マスターの大岳が待っていてくれた。
「おっ、冬来さん、久し振りですね。お元気でしたか?」
「いゃ、マスターもお元気そうですね。今日はすいません。お忙しいところを」
「良いってことよ。あなたの頼みなら何なりと言ってください。それよりも、和歌子は、一緒じゃないのかい?」
「あれ、マスターはご存じなかったのですか。浅茅さんは、今、休暇を取っていますよ。なんでも、岡山にご両親のお墓参りに行くって言っていましたが」
「えっ、岡山に?あいつ、俺には、何も言っていなかったね」
「そうですか。課長には遅い夏休みですよ。ゆっくりしたいから、マスターには、連絡しなかったのでしょう」
 大岳は、冬来のいう事を黙って聞いていた。いちいち、和歌子が出掛ける度に、何もマスターの大岳に言う事はない。なにを報告し、あるいは、報告をしなくても良いのか、彼女なりに考えているからだ。それよりも、大岳にしてみれば、冬来が、急に電話をかけてきて、和歌子の件で聞きたいことがあると、言ったことのほうが気になって仕方がなかった。
 何を聞いて来るのか。和歌子の何を知りたいのか。
 冬来は、ジンベースのカクテル《和歌子》を頼んだ。これは、浅茅和歌子の名前から取ったものだ。これを飲みながら浅茅和歌子に思いを馳せ、しみじみとした中で、大岳から彼女の事を聞こうとしていた。大岳の様子は、どことなく落ち着きがない。冬来の質問を待っているかのようにして、眼鏡を外しティッシュで、ガラス面を丁寧に磨いている。
 冬来は、《和歌子》を口にすると、大岳に視線を集中させるように移すと、
「マスター、先刻の電話の件なのですが、いいですか?」
「あぁ、いいよ。何を聞きたいのかね?」
「あの、マスターは『山陽百人一首』って、知っていますか?浅茅さんのお父さんも同人になっていたらしいのですが」
「この前も、言ったかも知れませんが、和歌子もそうだが、彼女の父親は、優れた歌人だったよ。『山陽百人一首』の選者でもあったし、確か、自分の和歌も載っているはずだよ」

(緑風 渡る瀬に泣く 幼子を 抱き上げあやす 両手への重み)

「が、そうですか」
 冬来が声を落として読み上げると、
「そうだよ。その和歌は、彼女の父親、浅茅法御のものだよ。たしか、和歌子が二歳ぐらいの時かな、瀬戸内の海岸へ親子で海水浴に行った際に作られた和歌だよ。思い出すね。浅茅は、和歌子の事を可愛くって仕方がなかった。よちよち歩きから、一人で走り回れるようになると、いつも、日曜日には、一緒に連れて歩いていたよ。それは、それは可愛がっていたな。だが、冬来さん。何で、あなたがその和歌を知っているのかね」
 大岳は、冬来が知るはずがない和歌を知っていることに首を傾げ、不思議そうに顔を曇らせた。
「この和歌は、『WAKA』のコマーシャルに、スーパーインポーズされているのですよ。私は、和歌のことは良く分かりませんが、声をあげて詠んでいると、本当に父親が、幼い子供を抱き上げ、高い高いって、天に持ち上げている様が、目の前に浮かんできますね」
「そうだろう。その中でも、(両手への重み)という所に、父親の愛情が感じられるのだな。すくすく育っていくわが子を見る、喜びがそこにはあるのだよ。浅茅は、和歌子をそう見ていたのさ」
「いゃ、分かりますよ。それで、その父親は、どうして亡くなったのですか?」
 冬来は、急に話を父親の話題に変えた。大岳は、一瞬、息を潜めた。冬来をジッと見て、急に笑顔を浮かべた。
「冬来さん、あなたは、何を知ろうとしているのかな。浅茅の死と、和歌子が何をしたかは知らないが、そのことと、関係があると見ているのかね。和歌子が何をしたというのかね」
「大岳さん、その件については、後で説明させてください。次にですが、この和歌はどうでしょうか?教えていただきのですが」

(碧藍の 境に点在 緑島 白き軌線に 夏の来ぬ見ゆ)

 大岳は、瞳を閉じて冬来の声を耳している。フッと溜息をつくと、
「この和歌は、桜井将夫の歌だよ。良く覚えているよ。でも、先刻も聞いたけど、なぜ、冬来さん、あなたがこの歌を知っているのかね。あの『山陽百人一首』は、絶版になっているし、世の中に流通しているとは思えないしね」
 マスターが疑問をぶつけると、
「それも、後になって説明させていただきます」
「そうかい。それはそれでいいや。それにしても、桜井将夫って奴は、嫌な奴だったな。自分勝手で、人の足を引っ張ったり、あることない事喋り捲り、とにかく、人を陥れることに関しては天才だったな。でも、冬来さん、その桜井は、今は、何をしているのかな?知りたくもないし。会いたくもないがね」
 大岳は、矛盾した言い方をした。岡山を出てから二十五年以上の時間が経っている。その間、仲間だった人間は、日本全国にテンデンばらばらとなった。誰が、何処へ行って、どんな仕事をしているのか。知る由もなかった。ましてや、興味もない人間のことなど、どうでも良かったが、今、この場で桜井の事を言われれば、どうしているのかと聞いてみるのは仕方のないことだった。
「マスター。何もご存知なかったのですか?」
「なんだね?」
「その桜井さんですが、岡山の鷲羽山で殺されていたのですよ。首を絞められて」
「何だって」
 大岳は、あまりの意外な展開に驚きの声をあげた。
「それって、本当か?」
「そうですよ。私も、今日の先刻まで知らなかったのですから」
「おいおい、冬来さん、あなた、今日知ったのか?」
「先刻ですよ。つい、三時間前です。そんな話を聞いても、私は、桜井さんって男は、全く知りませんから。何が、どうなっているのか。皆目分からないので、それで、マスターのところに来たのですよ」
「だが、電話では、何も言っていなかったじゃないか」
「それは、だって、電話で言えるようなことじゃないからですよ」
 冬来は、Mブックセンターから会社の戻った時、白木に会う前に、この内容は、「式部」のマスターに確認した方が良いと思い、連絡をしていた。
「冬来さん、あなたは、何処からの情報でそれを知ったのですか?警察に知り合いでもいるのですか」
「いぇ、そんな人はいませんが、実は、今日、Mブックセンターで浅茅課長が担当した『WAKA』のイベントの立会いに行ったのですが、その時に、そこの医務室の先生から、突然、声がかかり、この和歌の話と『山陽百人一首』、さらに、殺人事件について、説明を受けたのです」
 冬来は、高島先生から受けた説明を、そのまま、大岳に話した。『山陽百人一首』がからんでいるのであれば、浅茅和歌子以外に、この歌集を詳しく知っているのは、大岳しかいない。その知っているという内容を、歌集が殺人事件に関係があるのならば、そして、浅茅和歌子が関係しているとしたら、大岳が知らないわけがないと、思ったのである。
 大岳は、タバコを取り出すとジッポを鳴らした。紫煙が店の中に流れて行く。大岳は、胸いっぱいに煙を吸い込むと、一気に吐きだした。思案を巡らしているようだ。自分自身を落ち着かせようとしている。
「マスター。何か知っていることがあるのならば、全てを教えて欲しいのです。この殺人事件には、浅茅課長は関係しているのでしょうか。マスターは、ご存知なのでしょう」
 大岳は、冬来の目を見ながら聞いている。
「冬来さん、その他、今の二首以外の和歌もありましたか?どうなのですか?」
 大岳が、促すと、
「えぇ、もう、一首ありました。これから詠みあげます」
 そう言って、メモ用紙を手に持った。

(瀬戸内の 霧に埋もれし 見る影は 幾重の島に 降れる五月雨)

 冬来の声が進むに連れて、大岳の顔色が見る見るうちに変わってきた。冬来は、その顔色の豹変を見て声色が上擦った。
(やはり、何かあるのだ。マスターは、知っている筈だ。浅茅和歌子の秘密と、『山陽百人一首を』)

「冬来さん、この和歌の作者は、石本二郎だよ」
「マスター、これから、その話をしようと思っていたのですが、その石本二郎も九月の中旬に、東京は根津神社で殺されていたのですよ。やはり、首を絞められて」
「えっ、石本も殺されたのですか?なんでまた?あいつは、何処に住んでいたのですか?」
「石川県の小松ですって」
「小松ね。そうすると、その小松から東京へ出てきたわけだ。何が、あったのかね」
「ねぇ、マスター。二十五年前に、何があったのですか?」
「いゃ、私は、何も知らないよ。『山陽百人一首』のメンバーの行方には興味もなかったし、それよりも、この店を軌道に乗せる方に、全エネルギーを使っていたからね」
 大岳は、トランプをテーブルの上に拡げて、一枚いちまいに息をかけながら、なにやら、お呪いをしていた。そんな様は、冬来からは、惚けているようにしか見えなかった。
「それで、冬来さん、この和歌が、事件とどういう係わり合いを持っているのかね?」
「それは、先刻もお話して通り、明匠製菓の新製品『WAKA』のテレビコマーシャルに、使われているのです。それも、今、マスターが指摘したとおり、浅茅課長のお父さん以外で使われた和歌の作者が、えーと、そう、石本二郎と桜井将夫が殺人で死んでいるのです」
「それにしても、なぜ、二人の和歌を使わなければならなかったのかね?」
「いゃ、それについては、私にも良く分かりません。Mブックセンターの高島先生は、なにやら分かっているようでしたが」
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
「マスター、教えてくださいよ。二十五年前のこと。知っているのでしょう。惚けても駄目ですよ。全ては、お見通しですから」
「何をバカな事を言っているのかな。先刻も言ったでしょう。私は、何も知らないって。だって、石本が石川県にいて、桜井が、何処でしたっけ?」
「宮城県は松島ですよ」
「そうそう、松島でしたね。でも、よく、彼等がそこにいることが分かりましたよね。どうしたら、そんなこと、分かるのだろう?」
 大岳は、不思議そうにして、今度は、トランプで手遊びを始めた。巧みな手さばきでトランプを操る。まるで、大岳の意思が乗り移ったようだ。冬来は、大岳のカード捌きを見ている内に、浅茅和歌子は、今頃、何をしているのだろうか。東京で、こんな話が進行している事を知っているのだろうか。一刻も早く、連絡をとらなければと、焦りを感じ始めた。
 大岳は、それを読んだのか、
「冬来さん、和歌子の携帯番号を教えてくれないかね。連絡を取りたいのだが」
「あれ、マスター、知らないのですか?」
「あぁ、ほとんど、こちらからかけるような用事はないからね。ある時は、向うからかかってくるよ。私は、ただ、待っているだけさ」
「そうですか、実は、私も何回か、携帯に入れたのですが、今は、ウンともスンとも言わない状態です。これからも、かけるつもりですが」
 冬来は、そう言うと、メモ用紙に浅茅和歌子の携帯番号を書きとめ、マスターに手渡した。大岳は、それを受け取ると、赤のベストのポケットに仕舞い込んで、何事もなかったかのようにカウンターの中に身を置いた。
 入り口のドアがチャリンとなると、五、六人の客が、
「お?い、来たぞ」
 と、怒号をあげて入って来た。その瞬間、店の静けさは過去のものとなり、水割りのオーダーと共に消えていった。



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