「映像の逆訴」
〜18〜
明匠製菓の宣伝部、志水係長はMブックセンターのイベントから、品川の会社に戻ってきた。浅茅和歌子がいない分、代わって事務的な処理を自分でしないと、先に進まなくなってしまう。部員からの報告を聞いて、必要とあれば、それを役員へ説明する。こうして見ると、浅茅和歌子の処理能力は自分の数倍、上を行っているようだ。現に、即時の判断を求められると、一気果敢に決断する。常に、社内外の出来事を含め、業界動向、特に競合各社の動きをチェックしていた。
志水は、業界紙の記者との打ち合わせがあるため、『WAKA』の売れ行きの推移と、今後の見通しを立てるために、資料を読み込んでいる時に、デスク前の電話がなった。
(志水さん、浅茅です。どう、調子は?)
(あぁ、課長。お疲れ様です。いかがですか、久し振りの休暇は?)
(とても、快適よ。京都も良かったし。故郷もいいわね)
(課長、京都へ行ったのですか?)
(そうなの。志水さんには言っていませんでしたが、晩秋の京都を見たくてね。一日だけ、寄らせてもらいました)
(そうですか。それは、良かったですね)
(ありがとう。気分を一新出来たわ。これが、きつと明日の鋭気に繋がるのよね。)
(課長は、いつも、鋭気を持っているのですから、改めて、それを求めなくてもいいじゃないですか)
(そんな事はないわ。気分を変えることは、どんな場合でも必要なことよ。それよりも、『小倉百人一首展』の評判はどうなの?お客さんは入っているのかしら?)
(大評判ですよ。連日、満員の状態が続いています。あれだけの人気を博すとは、正直言って思いませんでした。この分で行くと、モバイルを使った「平成の百人一首」への応募も期待できますね)
(そう、それは良かった。催った甲斐があったわね。社長や常務も喜んでいるでしょう)
(そうなのですよ。大喜びで、ボーナスとは別に金一封を出すそうです)
(本当に。良かったじゃない。皆で頑張った甲斐があったわね)
(これも、課長のお陰ですよ。ありがとうございました。多分、社員一同がそう思っているはずですよ)
(そんなこと、ないわよ。皆さんの頑張りの賜物よ。それはそうと、何か他に変わったことはない?)
電話口の向こう側から、余裕を感じさせて志水に聞いて来た。急に、何かと言われても困ると思いながらも、報告をしていないことが頭を過ぎった。そうだ、あの件を話しておかなければと、電話を改めて握り直した。
(課長、報告していなかったことが、一つありました。課長が休暇を取った後に決まったものですから)
(何なの?)
(イベントとの件なのですが、これは、O&Uの橋爪さんからの提案で、会場内で、『WAKA』のテレビコマーシャルを流すことにいたしました)
(えっ、志水さん。今、何て言いました?)
浅茅和歌子が、訊ねた。
志水は、浅茅和歌子の意外な反応に驚きを見せた。
(『WAKA』のシリーズコマーシャル、四タイプを会場の出口の傍にモニターを置いて、お客さんにご覧に入れました。これも、評判になっています)
「志水さん、『WAKA』のコマーシャルを流しているの。それは、直ぐに止めてくれない。困る。止めて」
「課長、どうしたのですか。急に。何で、流すのを止めるのですか?何か、不都合でもあるのですか?」
「理由は、いいの。とにかく止めて。いいわね。この電話を切るわよ。すぐに会場に連絡を取ってくれない」
浅茅和歌子は、そう言うと、自分の方から電話を切った。
一体どうしたというのか。あのコマーシャルを流すなって言っていたが、何があったのか。志水は、理由が分からないまま、会場にいるO&Uの橋爪に電話を入れた。
(明匠の志水だ。何も聞かないでくれ。会場内に置いてあるTVモニターを撤去してくれないか)
(えっ、何ですって。撤去しろですって。どうしたのですか。急に、そんなこと言いだして。なにが、あったのですか?)
(いいから、すぐに、持ち出してくれ。いいな。)
(ちょっと、待ってくださいよ。折角、来場者にも評判がいいのに。止めるなんて)
(俺だって、分からないのだよ。課長が、急に、そう言ったのだから)
(課長がですか?)
(そうだよ。君が、尊敬している浅茅課長の命令だよ)
(だって、課長は休暇中のはずですよ。なのに、なぜ?)
(ほんの十分前に、課長から電話があったのさ。こちらからの報告を聞いた後、テレビコマーシャルの話をしたら、急に、止めてくれとの指示がでた訳だ)
(なんでまた。課長から)
(それが、分からないから、俺だって困っているのだよ)
(どうしたのですかね。浅茅課長らしくないことじゃないですか。今まで、理不尽な形を取ることなんか、全くありませんでしたからね)
橋爪の落胆した様子が、電話の先から感じられた。彼も、あまりの意外さに動揺しているようだった。今回のイベントの発案は彼自身が中心になって進めてきた。会場内の展示企画からお客様へのプレゼント企画まで、橋爪流のプランを押し通した。『WAKA』のコマーシャルを流すことも、きっと、浅茅和歌子が喜んでくれると思って、彼が、強引に企画の中に入れ込んだ。
それが、彼の意に反して、浅茅和歌子は、そのプランを止めろと言った。橋爪にしてみれば、これは、ショックなことだった。彼は、浅茅和歌子に喜んでもらいたい一心でプランをしたのに。それが、なぜ?浅茅和歌子は、何を理由で止めろと言うのか。良かれと思ってしたことが拙かったのか?逆に、課長に、何か迷惑をかけるような事になってしまったのか?
橋爪は、志水の電話を受けた後で、そう思った。だが、こうもしていられない。志水からの依頼を、すぐさま、実行しなければならない。事務局の部屋から急いで会場へ行った。中に入ると、モニターTVの前は人だかりになっていたが、係員に指示をして、モ二ターTVを事務局に運び込んだ。
橋爪は、過去に何回もコマーシャルを見ていた。『WAKA』の商品特性を活かした感性に富んでいる。女性タレントが、瀬戸内の島らしいところで、天に向かって叫んでいる。自然の島々の中での人間の解放。それを、和歌に託す。何回見ても、同じことの繰り返しだ。これに何があるって言うのか。浅茅課長が、止めろと言った原因がどこにあるのか。橋爪には、どうしても理解できなかった。
橋爪は、『WAKA』のプレゼンの時の事を思い出した。事前に、浅茅和歌子と打ち合わせをして、薮内社長にマッチする提案の仕方を考えた。これは、二人だけの秘密のこととしては、上手く進んだ。目論見通り、薮内社長は、思うとおりの反応をした。完璧に、こちら側の策にはまってくれた。橋爪は、志水からの電話を受けた時、あれは、浅茅課長が自分のペースに乗せる、策略だったのかも知れない。と、いう考えが思い浮かんだ。あまりにも、完璧だった薮内社長の決断。そして、浅茅課長の思うままの、その後の展開。
全ての事象で、浅茅課長の戦略・戦術が効を奏している。そう、思わざるを得なかった。すると、それには、何かの目的がなければ可笑しい。何かあるはずだ。もしかしたら、その秘密が、あのコマーシャルにあるのかも知れない。だからこそ、浅茅課長は、会場で見せる事を止めろと言ったのだ。
橋爪は、その事を頭に描いた上で、もう一度、コマーシャルを見た。何回か繰り返して見た。その結果は、それまで気がつかなかったが、共通の要素は、背景の映像が、どうも瀬戸内海らしいこと。それに、橋爪が知らないオリジナルの和歌が使われていること。この二点にヒントがありそうだと、彼なりに気がついた。だが、結果的に、それらが、どんな意味を持っているのかは分からなかった。
冬来の携帯電話がなった。もう、十一時を過ぎているのに誰からなのだろうか。浅茅和歌子の携帯に何回も電話をしているが繋がらない。着信の電話番号が残っている筈だから、必ず、返事があるものだと思っていた。そこへ、かかってきた電話だ。浅茅和歌子からの連絡だと思い、急いで、携帯に出た。
(もしもし、冬来です)
(部長、橋爪です。ちょっと、よろしいでしょうか)
(あぁ、君か。どうしたのだ)
(実は、今日、明匠の志水係長から電話がありまして、『小倉百人一首展』の会場にあった、モニターTVを片付けるように言われて、事務局の部屋に引き揚げました)
(なんだって。また、急だな。何が、あったのだよ)
(浅茅課長から、志水係長に電話があったらしいです)
(おいおい、それは、何時ごろだ。)
(まだ、会場内にお客様がいたころですから、それから察すると、午後五時から六時までの間と思われます)
(それじゃ、俺が会場を出て、白木君と話し合っていた頃だな。それで、浅茅さんは、その後、どうしたのだ?)
(いぇ、分かりません。事の成り行きは、志水さんが、課長のいない間の報告をした後で、会場内でのモニターTVに、コマーシャルを流している話をした時、突然、声を荒げて、撤去するように志水さんに指示をしたらしいです。それで、係長から私宛に連絡がありまして、すぐに、事務局に引き揚げたわけです)
(そうか。俺も、浅茅さんと連絡を取りたいのだが、全然、繋がらないのだよ)
(部長も、そうなのですか。実は、私も、連絡を取っているのですが、全くっと言っていい位に反応がありません)
ここで、冬来は迷った。今日のMブックセンターでの出来事。銀座のバア「式部」でのマスターとの話。その内容を、橋爪に言っていいものかどうか。大袈裟に風呂敷を広げて、浅茅和歌子にとって不都合な事は、なるべくオープンにしない方が良いと思っていた。
すると、橋爪が、冬来の気持ちを知ってか知らぬか、タイミングよく話しを切り出した。『WAKA』のプレゼン時の前後に感じた浅茅和歌子の印象。さらに、今日のモニター事件が示す浅茅和歌子の隠れた秘密。内容的には、冬来の思うところと、橋爪の感じているものは、ほぼ一緒だった。陰と陽の世界があるとすれば、浅茅和歌子は陽の世界の人だった。だが、冬来も橋爪も知らない、浅茅和歌子の陰の世界もある事を、ここに来て、感じるようになった。
と言うのも、大手の代理店が仕事を担当すると、自分の意のままになるとは限らない。一方で、O&Uを使えば、自分の思うとおりに使える可能性が高い。だから、浅茅和歌子は、それを知っていて、冬来に近づき、そして、橋爪に近づいたのか知れなかった。そう思うと、今回の『WAKA』導入のシナリオは、浅茅和歌子の思う通りに進行しているのだ。二人は、漸くそのことに気がついたようだ。
(それで、部長。この後、どうしますか?)
(取敢えず、浅茅課長との連絡を最優先にしよう。その上で、次の対策を立てようじゃないか。それから、このことについては、他言は無用だから。いいな)
冬来は、橋爪に駄目を押すと、電話を切った。
一人、会社の応接室に籠って、今までの浅茅和歌子との経緯を追ってみた。今にして思えば、プレゼンの前から、彼女の冬来たちに対するアプローチは、しっかりと準備されたものだった。いちいち、事前に情報はくれるし、ポイントのチェックにも行き届いていた。だがそれも、彼女のある目的を達成するための気配りだったに違いない。二人で、「式部」で飲んだ時も、あれは、マスターの大岳を紹介するのと同時に、今回の件のような突発的なことを予想して、冬来のコントロールをしようとしたのかも知れなかった。
それよりも、あのイベント、『小倉百人一首展』に、『WAKA』のTVコマーシャルが使われる事は、彼女の頭の中にはなかったのだろう。それが、彼女が、O&Uの社員の中で最も可愛がっている、橋爪の提案で企画の俎上に乗り、それを冬来自身も追認し、さらに、浅茅和歌子が次の課長に推薦している、志水係長がOKを出していることが、もしかして、彼女の見えない足を引っ張っているのかも知れないと、思い始めていた。
本来であれば、彼女自身を助けなければいけない三人が、浅茅和歌子を追い詰めているのだ。この時期に、浅茅和歌子が遅めの夏休みを取り、自分のいない間の思いもしなかった出来事。京都から岡山への旅行中に、まさか、東京でこんなことが起きているとは思わなかっただろう。
志水に電話をかけてきて、自分が知らないうちのTVコマーシャル事件。あの冷静な浅茅和歌子の切羽詰ったような志水への指示。連絡が取れない中にも、冬来は、浅茅和歌子を思いやった。どんな気持ちでいるのだろうか。今頃、何をしているのか。予期していなかった出来事に、さすがの浅茅和歌子も混乱しているに違いない。
あれだけ自分でコントロールしてきたプロジェクトが、最後の最後、夏期休暇をとっただけの、一瞬の気の緩みで思わぬ方向に進んでしまった。もしかすると、それが、浅茅和歌子にとって致命的なことになるのかも知れない。
冬来は、もう一度、彼女の携帯に連絡を入れるが、相変わらず、繋がる気配を見せない。何をしているのか。これだけ、心配しているのに、こちらからのアクセスを拒否している。一体全体何を考えているのか?当然の如く、志水との連絡案件は、冬来にも伝わっていると考えるのが、普通である。
そうだとしたら、冬来がどれだけ心配しているか。浅茅和歌子は当然分かっている筈だ。クライアントと代理店と言う関係はあるが、二人の間には、相通じ合うものがあった。それは、阿吽の呼吸と言っても良いほどの繋がりだった。
冬来自身は、そう思って浅茅和歌子と付き合ってきたのだ。だが、それは、冬来の一方的な想いであって、浅茅和歌子は、そんな風には思っていなかったのかも知れない。だが、いずれにしても、冬来にとっては、浅茅和歌子への想いは断ち難く、すでに、彼自身の心を十分に占拠していた。一人で酒を飲んでいる時は、いつも、彼女が頭の片隅にあった。
男なら、自分の彼女が、あるいは、想いを寄せている人が、窮地に陥っているとしたら、直ぐにでも、傍に行って助けてあげたいと思うことは、当たり前だ。冬来も、本来ならばそうしたいと思っていた。連絡が取れなければ取れないほど、その思いが募ってくる。一秒、一分、一時間が長く感じられるのだ。焦りが体中を攻めてくる。緊張の連続が手足を冷たくして、息遣いを荒くするし、心臓の鼓動も不規則になってくる。
だが、彼女からの連絡はない。人の気持ちを知らないで何をしているのか。冬来は、自分が段々イライラしてくることに、我慢が出来なくなっていた。時間は、自分の想いとは異なった次元で過ぎて行く。秒の刻みは、重ねるスピードが速いほど、浅茅和歌子は、次第に身動きが出来なくなってくる。それだけ、窮地と言う言葉が眼前に舞い下りてくるのだ。今となったら、そうなることは仕方がない。でも、なんとか、彼女を助けなければと、いや、助けられるのは自分しかいない。だから、連絡を待っているのに。
冬来は一人、東京湾を見下ろせる会議室にやってきた。夜景は、ライトに作られたレインボーブリッジのシルエットを浮き立たせ、海面の光点は鋭く輝き、ゆっくりと競演しながら、湾外に向かっている。冬来は、それを目で追いながら、ひたすら浅茅和歌子からの電話を待つことになる。十一月の後半にしては珍しく、北からの寒気団が列島を覆っているらしく、光の輝度が何時もよりは明るく見える。
十時を回った。これ以上、会社で待っていても埒が明かないと思ったが、早く、彼女との接点を持たなければ、との思いで、もう暫く待機することにした。
携帯電話をデスクに置いて、彼女からの連絡を待つのだ。あれだけ、こちらから連絡を入れたのだから、必ず、彼女から返信が来るものと確信をしていた。
窓辺に立つと闇は深くなっていた。それだけに光芒の一閃が網膜に焼きつく。その光は、浅茅和歌子の輝きとオーバーラップするようだ。そうなのだ。彼女の輝きも、周囲のクールさの中での光芒なのだ。冷気に光が研ぎ澄まされるように、彼女にも、そんな冷気光があるのだ。冬来は、窓外の光の競演に視線を捉えられていたが、意を取り直して、デスクの上に長い足を投げかけると、突然、携帯が鳴った。
待っていた携帯音だ。電話を手に取り、相手の番号をチェックした。浅茅和歌子の番号だ。やっと、かかって来た。急いで、受信ボタンを押した。
「もしもし、浅茅さん。浅茅さん。課長」
冬来は、性急な対応で声をかけた。耳にあてた受話器の向こう側からは、応答がない。冬来は、もう一度、呼びかけを繰り返した。すると、声が返ってきた。聞き慣れた男の声だった。なんで、あの男の声が、浅茅課長の携帯から聞こえてくるのだ。冬来は、混乱していた。
「部長。雨貝です」
「雨貝、何で、お前が課長の電話を使っているのだ。何で、お前がそこにいるのだ」
冬来は、完全に気が動転していた。その後、冬来が、何回もそれを質そうとしたが、二度と天貝の声を聞く事は出来なかった。
翌日、高島先生は、何時にもなく、早めに医務室に出てきた。Mブックセンターのオープンは十時であるが、今日は、七時にやってきた。六階の社長室には、すでに、山口社長が来ているらしい。自分でも、珍しいぐらい早く来たのは、昨日の、TVモニターに映っていたコマーシャルが気になっていたためだった。それに、落ち着いて、百人一首展を見たいとも思っていた。管理人さんに無理を言って、四階のイベント会場に入った。隅々まで見渡すと、こんなにガランとした会場に、溢れるほどの人たちが入場するのだ。自分は、主催者ではないが、多くの来場者が来てくれることは、他人事ながら嬉しく感じてしまう。
和歌の額装は、そのままになっているが、センターの展示物や売り物の書籍には、白布がかけられている。後、三時間もすれば、また、会場は人いきれで一杯になる。その前に、もう一度、会場内を見たかったのだ。入って直ぐに、TVモニターの前に行ったが、後陰もなく持ち去られていた。管理人に聞くと、彼は、何も知らなかった。その件については、会場の担当者が来るまで待つしかないが、それまでの間、途中まで見ていた作品を見ることにした。
十番目の蝉丸のところから、スタートすることにした。今日は、安心してゆっくりと見ることが出来る、時間をかけて見る心算だった。一番から十番までには、百人一首の中でも、有名な和歌があった。柿本人麻呂、山部赤人、安倍仲麿、小野小町などがそうである。それ以降にも、僧正遍照や在原業平、文屋康秀、貞信公、壬生忠岑、紀友則、紀貫之と続いている。
紀貫之の和歌は、今でもしっかりと覚えている。
「人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける」
解説を読むと、
(人の気持ちはわからないけれど、故郷の梅の花の香りは昔と同じように咲き匂い、私を迎えてくれている)
この和歌の前で瞳を閉じた。暫く、そのまま佇んでいた。春浅い故郷のシーンが目の前に浮かんでくる。それに、遠く離れていて久し振りに見る梅の花は、時の流れに関係なく、昔通りの香りで咲いている、情景も思い描ける。
高島先生は、ふと、われに返って、続きを見ることにした。三十六番の清原深養父、三十七番の文屋朝康を見終わって、次の三十八番目に差し掛かった時のことだった。あまりに、突然の事だったので、一瞬、我を忘れるようなショックを感じた。その場に立ち竦んだまま、動くことが出来なかった。それは、昨日、この会場で、『WAKA』のテレビコマーシャルに出会った時もそうだったが、今日の、この三十八番目の和歌の前でも、同じように、立ち竦んでしまった。
そこには、次のような和歌が展示されていた。
「忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな」
右近
高島先生は、和歌そのものよりも、作者の「右近」という文字を見た瞬間に、あのダイング・メッセージの「ウコン」を思い出したのだ。東京・根津神社で、絞殺死体で発見された、石本二郎の傍にあった領収書の裏に記された文字が、「ウコンの後ろ」だった。さらに、岡山の鷲羽山で、同じく絞殺された桜井将夫の傍にも、「ウコンの後ろ」の紙片が置いてあった。あれ以降、「ウコン」という言葉が、何を意味しているのか。また、その背景を探るために、インターネットを始め、文明の利器を総動員したが、結局は、分からずじまいだった。
沖縄産の健康食品の「ウコン」。あるいは、高山右近や、京都御所の右近。あらゆる「ウコン」を探ってきたが、まさか、百人一首の中の作者に、「右近」があるとは気がつかなかったし、思いもしなかった。事件の核になっている、『山陽百人一首』の事を考えれば、同じ「百人一首」という共通点があった訳だから、もっと早く気がつけば良かったものを、なかなか、そこまでには思いが寄らなかった。
因みに、この和歌の解説には、こう書かれていた。
(やがて、忘れられてしまう私である事を思わずに、あなたと愛を誓ったのだけれど、その誓いを破ったあなたには、天罰が下って、きっと命を落とすことでしょう。私には、それが惜しまれてなりません)
これは、右近が藤原敦忠と愛し合っていた時の和歌で、その敦忠が他の女の所へ通っている、という噂を耳にした右近が作ったものらしい。
右近は、相手の男に天罰が下る、ことを期待しているわけではないが、いつまでも愛すると神に誓ったにもかかわらず、それを裏切った行為に対して神が天罰を下し、死ぬことになるでしょう。と、詠っているのである。
高島先生は、あのダイング・メッセージで「ウコン」と、言っている意味は、この右近の和歌のことではないかと思った。詳細に詠んでみると、女から男への愛憎が感じられる。それに、「天罰」という言葉に引っかかるものがあった。「天罰」、これは、字義の通りであれば、天が下す刑罰となる。別の意味では、悪事に対し自然に下される報い。ともある。と、いうことは、二人の被害者の傍に、「ウコンの後ろ」の紙片があったことは、まさに、悪事に対する報いと、読めなくはない。果して、殺害された被害者は、どんな悪事を働いたのか。殺人は、それに対する復讐なのか。それは、誰からの復讐なのか。高島先生の頭は、一連の流れを整理し始めていた。
いずれにしても、この『小倉百人一首展』に、二つの事件を解決するヒントがあったのだ。一つは、『山陽百人一首』の和歌が、明匠製菓の『WAKA』のコマーシャルに使われている。それも、殺害された被害者の作品である。石川県小松市の石本二郎。宮城県は松島の桜井将夫の和歌が挿入されていた。三ヶ月前の事件の発端から悩み続けていた、彼等二人の被害者が東京へ、そして、岡山へ誘い出された理由が、ようやっと、氷解したような気がした。
それまでは、通信手段としての電話やFAX、手紙それにメール。さらに、人的なコミュニケーションなど、殆ど、考えられるものを洗ってきたが、つまるところ、何も見出すことは出来なかったのだ。それが、多分、これで解決はつく。
もう一つが、「ウコンの後ろ」だった。この「ウコン」は、実は、百人一首の三十八番の作者「右近」を指していたのだ。彼女の作品から読み取った、和歌の大意からすると、天罰、つまり、悪事に対する復讐の事を示しているのだ。これで、事件を解決する、二つの案件が解き明かされようとしたわけである。だが、もう一つ、解決しなければならないことがあった。
それは、「ウコンの後ろ」の「後ろ」のことである。高島先生は、当初、この二つの言葉、「ウコンの」「後ろ」は、「ウコンの後ろ」のように一体化されたものと理解していたが、会場内で気づいたのだが、今の段階で、別なものだとの感触を得ていた。当然のことながら、「後ろ」ということになると、三十八番の次の和歌、つまり、三十九番目の和歌を暗示していることになる。
その和歌の作者は、参議等である。姓は源。嵯峨天皇の曾孫にあたる人で、この和歌は、後撰集からの出典で、これもまた、恋歌である。
(あさぢふの をのの篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき)
これも、解説を読んでみると、
(まばらに芽が生えている小野の篠原の「しの」ではないが、これまで忍んできたのが、今は、とても忍びきれなくなって、あなたのことが恋しくてなりません)
と、なっていた。これは、愛の告白の和歌である。参議等にきっと好きな女性がいたのだろう。
だが、確かに、この和歌が、三十八番目の「右近」「の後ろ」のものである。一体、これに、どんな秘密が隠されているのだろうか。高島先生は、解説を何回となく繰り返し読んだ。しかしながら、和歌の大意からは、恋歌の細かいセンスが響いてくるだけで、特に、他には、何も感じなかった。そうなると、「の後ろ」は、本当に、「右近」の和歌の後ろのことなのか。それとも、参議等のことを言っているのか。
高島先生は、ちょっと気分を変えることにした。会場のセンターに配置されているテーブルの白布を取ると、百人一首の絵札と下の句の文字札が置いてあった。そのうちの絵札をテーブルの上に並べて、神経衰弱をを始めた。坊主が合ったり、姫札が合ったりした。一人で、何気なく札を捲っていると、頭がスッキリしてくるようになってきた。
そうか。ダイング・メッセージであるならば、それは、特定された人を表現している筈だ。人の名前なのだ。あまりにも、和歌の内容に何か隠されたものがあると思っていたが、そうではなかったのだ。そうすると、名前をイメージできるワードを三十九番の和歌から探せばいいのだ。
高島先生は、ホッとした気分になった。改めて、参議等の和歌の前に立った。
本歌と解説を見比べながら、文字のニュアンスを追った。言葉遊びの感覚で、見比べながら名前、もしくは、姓をイメージした。幾つかの名前が浮かんできた。
まず、参議等からは、「等」という名前が思い浮かんだ。「ひとし」と読む。それから、本歌と解説から最初に浮かんだのは、「をのの」から「小野」という姓。次に、「篠原」からは、ストレートに「篠原」。ここまでは、簡単にアウトプットされた。もう少し眺めていると、上の句、最初の、「あさぢふの」の文字が頭の中にイメージされた。「あさじふ」、意味は、まばらな芽のことだ。漢字にすると、「浅茅」になる。後で、辞書で確認をすることにして、今、この場で考えただけでも四つの候補が上がった。
「等」、「小野」、「篠原」、「浅茅」の四つだ。この他には、どう考えても思いつかなかった。高島先生は、それをメモ用紙に書き留めると、ジャケットの内ポケットに仕舞い込んだ。必ずや、この中にダイング・メッセージに示された名前があるはずだ。その示された名前の人が犯人ということになる。時間がかかったが、やっと、ここまで来たという思いが、頭を過ぎる。
だが、ここに挙げた名前を一通り見比べてみると、「等」は、何となく男の名前の感じがする。次に、「小野」、「篠原」、「浅茅」からは、男女の区別がつかない。第一の殺害現場の根津神社へ行った時、被害者が発見された場所に季節の花が添えてあった。近所の人が、立ち入り禁止のつつじ丘の中に入って、供養のために花を置くとは考えられなかった。そう、きっと犯人が置いたのだ。それも、そこまで、気がつくのは女性だろう。あの時、清澄警部と古屋由美子の三人で、そう結論付けたのだった。
それからすると、この三人の名前の中に犯人がいる。それも、女性だ。被害者の周辺に、この名前の女性がいるかどうかをチェックする必要がある。それと、このコマシャールを作った関係者を、至急に洗うことも重要だ。いや、こちらを先にやることの方が先決だ。必ず、その周辺に犯人がいるはずだ。
八時を過ぎると、イベントの関係者が一人二人と会場にやってきた。あちこちで、朝の挨拶が始まる。高島先生も、簡単な挨拶をすると、会場の出入口にいた若い係員に聞いた。
「おはようございます。ちょっと、お尋ねいたしますが、昨日まで、ここに置いてあったテレビモニターが、消えていますがどうされたのですかね?」
「あぁ、それだったら、代理店の人に聞かないと分からないですね。私達は、会場係りですから」
「代理店の方は、もう来られていますか?」
「いぇ、まだですね。あと十五分もすれば、来られると思いますが」
係員は、そう言うと、足早にその場を離れ、会場内の掃除を始めた。その様子を見ていると、いよいよ、今日、一日がスタートするのだ。それぞれの係員が自分の持ち場の仕事を、テキパキとこなして行く。少し厚手のカーテンも開けられた。光が射し込むと、会場に命が吹き込まれる。額装された和歌の一つひとつが、生き生きととして来る。綴られた墨文字にも力が籠って見える。
準備万端だ。いつ、お客さんが来ても良い状態になった。高島先生は、これ以上、ここにいると、迷惑をかけると思い、四十番以降の和歌については、また、日を改めて見ることにして、ひとまず、七階の医務室に引き揚げることにした。
医務室には、看護士師の麻友さんが、既に来ていた。午前中に三人が来る予定になっている、患者さんのための準備をしている。高島先生は、一声、朝の挨拶をかけて日本茶を頼んだ。麻友さんは、いつも通りの透き通った返事をして、勝手口に急いだ。
高島先生は、診察室に入ると、一回、二回と、両手を頭の上で組み背伸びをした。何時もとは違って、朝が早かったせいか眠気に襲われた。大きく深呼吸もして、気分を一新した。
早速、清澄、渋江両警部と、古屋由美子に連絡を取った。事件解決の糸口が、なんと、自分の足元、Mブックセンターのイベントにあったとは、想像もしていなかったことを三人に告げた。由美子は、昨日、同席していたので、『山陽百人一首』の和歌が、明匠製菓の『WAKA』のコマーシャルに使われている件は承知していた。後の二人の警部は、何も知らなかったので、高島先生から二件の話を聞いた時には、驚きの声をあげていた。
ましてや、コマーシャルが関係しているとの指摘には声が出なかった。無言のままで、次の言葉を待っていた。特に、両刑事にしてみれば、時間が進み、日にちが経過して行く割には、捜査の進展が思わしくなく、八方塞の状態に焦りを感じていた。それだけに、今回、ここでの進展は、両刑事にとっては、事件解決の燭光に感じられた。二本のレールが目の前にある感じだった。当てもなく走り続けた来た先に、終点の駅が見えるような感慨にも襲われる気分だった。
高島先生は、取り急いで、その日の午後、三人を招集することにした。その一方で、O&Uの冬来部長にも連絡を入れた。生憎、電話に出る事はなかったが、出来たら、今日の午後一時に、Mブックセンターの医務室に来られるよう、留守番電話を残した。
事件への核心に迫るのは、これからだ。自分の中には、あるイメージが出来ているが、後は、それを、事実を持ってトレースすれば良い。不安があるとすれば、冬来の人物像を完全に理解していないことだけだ。その人物を入れて、捜査の全貌を明らかにしなければならない。だが、昨日の段階で、全てではないが、一部分の話はしてあるし、見たところ、信用が置ける人間と判断していた。冬来を参加させることで、解決への道がスピードアップするのであれば、それはそれで、有効な手当てになる。ここで、躊躇ってはならない。
高島先生は、今こそが勝負の時と判断して、麻友さんの淹れた熱いお茶を口元に運び、冷ますために息を吹きかけた。
ちょうど、十時だ。チャイムが鳴り開店の社内放送が、何時もと何等変わりなく、事務的に流れた。
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