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「映像の逆訴」


〜20〜

 浅茅和歌子は、故郷の岡山を離れて、再び京都に戻って来た。昨日の、東京のMブックセンターの一件が露見した段階で、急遽、岡山を離れざるを得なかった。まさか、あんな形で、『WAKA』のコマーシャルが、露出されているとは思いもよらなかった。蟻の一穴ではないが、これまで、完璧を期して進めてきた全てが、これで瓦解してしまう。
 これ以上、岡山にいても仕方がないとの思いで、最終の上り新幹線で京都入りをした。その間は、自分でも信じられないぐらいに、不安で体中が震えていた。何か、居たたまれないようなプレッシャーに支配されていた。遅くなって、暗い気持ちでホテルにチェックインした後、部屋に入ると明かりを点けるのも億劫になっていた。
(何で、こうなってしまった)
のかと、反省をすることしきりだった。ベッドに横になり、寝酒にウイスキーを飲んでも睡魔は襲うことを知らなかった。眠ろうとすればするほど、神経は高ぶってくる。ゆっくりしたかったが、余りのショックで眠れなかった。心配ごとが頭を駆け巡る。最悪の状況ばかりが頭を掠めていく。こんな事は、初めてだった。何事をするのにも、抜かったことがなかっただけに、今度の事は信じられない出来事だった。
 迂闊だった。自分が休暇を取っている間に、考えもしなかったことが起きていた。まさか、こんなことになっているとは思わなかった。『WAKA』のコマーシャルに隠された秘密。あの会場で、このこと気がついている人はいないかも知れないが、往々にして、それが逆になって、ホンの一人かもしれないが、気がつく場合があるのだ。
 こうなったことには、運命を感じざるを得ない。練りに練った緻密な計画も、自分の手の内にあるまでは良いが、多くの人の手が加わるようになると、その瞬間から、コントロールが効かなくなる。
 今度の場合がそうだった。こうなる道しかなかったのか。油断が運命の先行きに力を沿えてしまった様だ。ここまできたら、これから、どんなに手を打っても、元に戻すことは不可能だろう。一縷の望みもあるかも知れないが、そんな余所事に期待しても、展望が良くなる事はない。
 ここは、覚悟を決めないといけない。すでに、警察が動いていることは自明だ。何となく、そんな気がしてならなかった。それは、自分の携帯に、冬来、志水、それに、今まで、携帯に連絡をして来なかった、「式部」のマスターの大岳からも、コールが何回もあった。それだけで、東京で何が起きているのかが想像できた。加えて、天貝が浅茅和歌子の携帯で、冬来に連絡を入れた際の、冬来の、あの慌てようを見ていると、完全に、コマーシャルの件は、オープンになっていると、思わざるを得なかった。
 もし、そうだとしたら、当然のごとく警察の捜査陣が動きだす。先ず、岡山周辺が真っ先に、捜査の対象になる。当然、今頃は、県内で自分のことを捜索しているに違いない。これも、仕方がないことだ。何れ、そういう時を迎えると思っていた。それが、たまたま両親の墓参りの時に重なったのだ。運命のいたずらを感じざるを得なかった。

 東山のはずれにある、Gホテルの二間続きの洋室には、朝の陽射しが柔らかく射しこんでいる。光先は、Wベッドを足長に照らして、入り口のドアまで達している。外を見ると、昨日の木枯らし一番の影響か、深赤に染まった落葉が風に舞っている。そんな風景を視線の先にしている一人の男が、窓辺に立っていた。銜え煙草をしている姿は、ジッと一点を見つめたままで、何やら、物悲しそうな表情をしていた。O&Uの天貝だった。
 雨貝は、四日前に、浅茅和歌子が遅い夏休みの休暇を取ると聞いた時から、会社を無断欠勤していた。二人の子供は放ったからしにして、彼女が東京を離れた時から、ずっと、後を付けていた。今頃は、浅茅和歌子ではないが、東京で、同じように大騒ぎをしているに違いない。父親の役割を果たさずに、あいつは勝手な事をしている。と、憤慨しているのが、手に取るように分かる。
 雨貝本人は、そう思われても仕方がないと、自分の意志を通すことにしていた。浅茅和歌子の今回の休暇を聞いた時、何となく、嫌な予感がしていたのだ。何時にない、胸騒ぎがした。このまま、浅茅和歌子に休暇を取らせてはいけない、と思いつつも、それを止めさせる権利は、天貝にはない。だったら、彼女の傍にいて、見守るしかないのだ。そうすることが、今の天貝が、浅茅和歌子に対して出来る愛情の証だと思っていた。

 雨貝は、『WAKA』のTVコマーシャルの制作と、関西地区の発表会への同行以来、浅茅和歌子とは会っていなかった。それが、九月の中旬位であったから、もう、二ヶ月以上、顔をあわせていなかった。ほんの数ヶ月前のことだったが、『WAKA』のコマーシャル制作の際は楽しかった。憧れの、浅茅和歌子と一緒に仕事が出来た上に、二人だけでの打ち合わせ時間の濃密さが、雨貝の心を揺さぶり有頂天にしていた。
 コマーシャルプランの詰めから、一つひとつのフレームに、どんな意味を持たせるのか。『WAKA』のイメージに合うタレントの選定。撮影の段取り、ロケ地の決定。これらを、全て二人で決めて行く。二週間の限られた時間の中での作業は、本当に手に手を取り合って、作っていく辛さもあったが、苦労する反面、一緒に居られる楽しみが、全てに勝っていた。
 アイディアは、浅茅和歌子のものを採用した。『WAKA』のイメージは、誰よりも彼女に内在されていた。生活者へのインパクト。時代の気分や流行の兆しにも敏感だった。並みのプランナーも彼女の前では形無しだった。
 瀬戸内海の自然を対象にして、『WAKA』という、商品コンセプトにあうようなイメージを創る。その中に、和歌をスーパーインポーズする。全体の流れの中で、『WAKA』のブランド・イメージを醸成しようと考えたのだ。
 現に、出来上がったコマーシャルは評判になっていた。商品の売れ行きも順調で、今年のヒット商品のナンバー1になっている。
 そういう発想をする彼女と仕事をして行くにつけ、自分自身は、知らず知らずの内に、彼女に、どんどんのめり込んでいくのが分かってくる。妻と子供がいるにも関わらず、彼女の魅力に惹き込まれて行く。朝な夕なに、彼女の存在が、自分の心奥を占領してくる。
 だからと言って、彼女をどうこうする心算はなかった。高嶺の花として見ている方が楽だった。それよりも、一歩、先に進むのが怖かった。もし、無視をされたらと、思うと、傍にいて見守っていく方が、自分には合っていた。
 だから、今回も、浅茅和歌子の休暇を知った時、それも、東京を離れることになったときは、何か、遠いところへ行ってしまうような気がしたのだ。それまでは、会社にいれば、浅茅和歌子の話は、日常的にチェックすることが出来た。冬来部長と、二人だけで酒を飲んでも、必ず、そんな情報は、時間差なく手許に来る。彼女が何をしているかは、こと、O&U社に関することであれば、アクセスが出来るのだ。
 というのも、O&Uの社員の間では、浅茅和歌子は、筆舌を尽くしがたいほどの人気があった。冬来チームに入った連中は、誰もが浅茅和歌子との接触を望んでいた。そこでは、運命共同体のような感覚が働き、彼女に関しては情報の共有化が出来ていた。それ故、東京での彼女の行動を心配していなかった。それよりも、そういうメンバーが知らないところでの、二人の秘密があったことの方が、天貝にとっては、優越感に浸れたのだ。
 そんな天貝の行動は、家族の存在を無視したがために出来たことだ。妻の淑子と二人の子供の事は、浅茅和歌子に会って以来、目の届かないところへ放り投げていた。自分ではいけないと思いながらも、浅茅和歌子の声に出さない誘惑には勝てなかった。あの目配り。しなやかな姿態。それは、自分だけに注がれているのではないかとの錯覚。それも、自分ひとりで勝手に思っていただけなのだが、彼女の不思議な魔力の虜になってしまった。
 寝ても冷めてもとは、こういう状態を言うのか。ただただ、二人の世界が永遠に続く事を祈っていた。だが、『WAKA』導入の準備段階が終わって、実際に、キャンペーンが始まると、雨貝と浅茅和歌子の接点は、一気に間遠になった。というのも、その頃の彼女は、営業やコミュニケーションの一線に立って、新製品の拡販に没頭するようになっていた。
 浅茅和歌子の仕事上での重点エリアが、天貝とは、全く関係ない分野に変更になって以来、二ヵ月半の間、彼女とは会っていなかったのだ。
 天貝には、それは悲しいことだった。辛い日が続いた。冬来が、彼女と二人で、銀座で会っていたとの話を聞くと、気が狂いそうになったこともあった。だが、例えそうであっても、自分から近づく事は出来ない。彼女と自分とは、仕事上だけで繋がっていたのだ。自分の勝手な思いだけで、中味は彼女には伝わっていないかも知れない。それに、妻子があることも知っている。そんなハンディを背負ってまで、自分と付き合う態度は取らないだろう。
 だが、浅茅和歌子が休暇を取ることを知った時、このチャンスを活かさなければと思ったのだ。誰にも邪魔をされない二人だけの時間が出来る。心置きなく、二ヵ月半前の、あの世界を共有できるのだ。
 淑子は、もうこの世にはいない。二人の子供の事を考えると不憫だが、この自分の気持ちだけは抑えられない。彼女のことを考えると、どうしようもないのだ。浅茅和歌子に惹かれる、底無しの魔力を断ち切る事は出来ない。
 妻の淑子が自殺した後、二人の子供との生活を維持して来たが、如何せん、浅茅和歌子を忘れる事は出来なかった。会社にいても、常に、彼女が浮かんでくる。それほどまでに、心を奪われていた。
 浅茅和歌子が、東京駅に向かう日、雨貝は、彼女の自宅前で待っていた。晴天の空は飽くまでも高く、小春日和の朝は、爽やかさよりも、少し、暑いぐらいだった。雨貝は、彼女の休暇を知った時から、そうする事を決めていた。
 例の社内情報網は薮内社長をもマークしていた。そこから、彼女が両親の墓参りで、岡山へ行く事をキャッチしていた。遂に、二人になるチャンスが来るのだ。一方的な思いかも知れないが、それ以上に、彼女をサポートすることの意味を大事にしたかった。二人の子供には手紙を置いてきた。一週間分のお金も置いて、彼女の後を追う事にしたのだ。
 浅茅和歌子は、マンションから颯爽と出てきた。淡いブルーのツーピースに、コートを手にしていた。傍目から見ていても、抜きんでている美しさだ。キビキビした動きにも華がある。
 マンションの前には、すでに、タクシーが待っていた。当然、そのようなことがあろうと、天貝もタクシーを用意していた。彼女は、まさか、天貝が待っているとは知らずに、旅行カバンを後部座席に置くと、身を屈めて乗り込んだ。
 天貝は、いよいよ、これから、彼女の休暇中に付き合うのだ。久し振りに、昂揚した気分になる。先行するタクシーを追う間も、この後、どんなことが起きるのか?小さな不安が、さざ波のような正弦波の連続となって、脳裏を掠める。
 東京から京都までの新幹線の中。そして、京都から岡山。雨貝は、浅茅和歌子の行き先に影のように付きまとっていた。初日には計算違いもあった。彼女は、岡山に直接向かうのかと思っていたら、途中の京都で降りたことだ。

 そう言えば、『WAKA』の関西地区の発表会の際にも二人で京都に来たことがあった。一日の空いた時間を、浅茅和歌子に京都散策を誘われたのだ。相合傘で、東山エリアを歩いた。残暑が厳しい中で、不思議に、あの日だけが大雨だった。仕事人間と思われた浅茅和歌子が、何時になくハシャイで、雨中を肩寄せ合いながら、南禅寺から哲学の道を銀閣寺に向かった。
 寒さを感じるには程遠い季節ではあったが、それでも、彼女の柔らかく、優しい温もりが天貝の心に伝わってきた。この一日の出来事が、雨貝の奥に秘めた情熱の源泉になっていた。それに、趣味というか、文学的素養も共通していて、三十一文字の世界では、大いに話が弾んだ。万葉集から始まり、多くの勅撰和歌集の世界を、一晩かけて語り明かした。
 特に、浅茅和歌子が、彼女自身でも和歌を詠んでいる事を聞いたときには、その作品を見せて欲しいと懇願した。どんなセンスの作品を詠んでいるのか、それを、知りたかった。まがりなりにも、自分が惚れた女だし、尊敬もしている。そういう彼女の感性を、もっと、身近に知りたかった。だが、彼女は、次の機会にということで、その場は、上手くはぐらかされた。
 それ以来、その次の機会を待っていたが、なかなか、そんなチャンスは来なかった。
 もう一度、その時の感情に戻れるのかどうか。疑心暗鬼になりつつも、浅茅和歌子の行動を追った。京都駅から清水寺、「ねねの道」を通って、円山公園、知恩院へ向かった時は、見失うのではないかと、気が気ではなかった。一方で、気付かれはしないか、との不安も過ぎった。
 まるで、私立探偵の尾行ように、つかず離れず浅茅和歌子の後を追った。知恩院では、あわやく、気が付かれそうになった。境内にいた子供に伝言を頼んだ時だった。女坂で見守っていた際には危なかった。辛うじて、その場を上手く潜り抜けた。それまでの間、彼女の様子が、急に可笑しくなる時が何回かあった。時々、後ろを振り返り、あたりを探る仕草を見せていた。天貝が後を付けている事を察知したのだろうか。用心深い態度を見せるようになっていた。
 一番大変だったのは、賀茂川縁の日本旅館での宿泊だった。彼女は、予め宿泊の予約を取っていたが、雨貝は、行き当りばったりで宿を取ることになった。浅茅和歌子が旅館に入ってから十分が経っただろうか、フロントが空いた頃を見張らかって、館内に入った。運良く、ウイークディだったので、予約なしで部屋を取ることが出来た。それも、彼女の隣の部屋が確保できた。
 知恩院での例もあったので、彼女に気が付かれないように、出来得る限り、陰の部分に徹することにした。だが、こんな間近で、しかも、二人きりになれるチャンスがあるにもかかわらず、そこに踏み出せない自分自身を情けなく思った。明日こそ、岡山に行った際には、必ずや、浅茅和歌子の前に姿を現し、自分の想いを吐露しようと決めていた。

 岡山県の伊部市。浅茅家の菩提寺であるF寺。雨貝は、浅茅和歌子が寺に来る前に先回りしていた。東京の自宅から、京都、岡山とずっと彼女を付けてきた。彼女の休暇中、他人の干渉がなくなったところで、どこかのタイミングを狙って、彼女の前に姿を見せようと思っていた。
 F寺が、最適な場所になった。浅茅和歌子が、荘厳な山門をくぐり本堂の真裏にある、広大な墓地の一番奥にある浅茅家の墓にやってきた。雨貝は、十五メートルぐらい離れた、その墓を見通せる所で待っていた。微速な風が小春日和を運んでくる。晩秋にしては暑いぐらいだ。
 すると、住職の案内で、浅茅和歌子が紫のスーツ姿で現れた。右手に秋の花を持って墓前の前に立った。墓は、すでに、お寺さんが奇麗に清掃していた。彼女は、その花を墓前に捧げて、バッグから数珠を取り出した。瞳を閉じて合掌した。
 住職の読経が静かなリズムで響く。その声は、真っ青な天空に吸い込まれていくようだ。二十五年間の空白が一気に蘇ってくる。墓前の前に立ち瞑想していると、両親の声が聞こえてくるようだ。浅茅和歌子は、ジッとしたままリズム音の中に精神を集中していた。
 読経が終わると、浅茅和歌子は、墓石の傍らに刻まれた字跡を追っていた。遠目で見ていても、涙を流しているのがよく分かる。それを拭おうともしなかった。そんな姿を見るにつけ、天貝が知らない浅茅和歌子が現れてくる。過去を語ったことがない、彼女の一面が垣間見える。
 雨貝は、離れた場所から、それを見つめて動かなかった。彼女が、涙を拭うことを忘れるぐらい、注視している墓石に、何が刻まれているのか気になって仕方がなかった。浅茅和歌子が、住職に御礼を言っているのか、丁寧そうに見える挨拶をしていた。
 その後ですぐに、住職がその場を離れた。庫裏に戻って行くようだ。
 天貝は、そのタイミングを見て、
「課長」
 と、言って彼女の前に姿を現した。
 浅茅和歌子は振り返った。
「天貝さん、やはり、あなただったのね。後を尾行けていたのは」
 浅茅和歌子は、低い叫び声をあげた。天貝は、少しの躊躇いを見せたが、微笑を浮かべて彼女の傍に近寄った。
 浅茅和歌子は、眼をキッと見開き、
「知恩院での、あの手紙をくれた時、あぁ、あなたに違いないと思っていたわ。一体、どうしたというわけ?それに、お墓参りに来る事は、薮内社長しか知らないはずなのに。どうして、あなたが知っていたの?」
 浅茅和歌子の詰問するような声だった。
 天貝は、浅茅和歌子の余りの言いように、顔色を変えた。少し構える姿勢を見せた。何時にない強い態度を見せている。凄い気迫に圧倒される。
「天貝さん、どういうつもりなの?あなたに、後を尾行けられる理由があるのかしら?」
「いぇ、そんな事はありませんが」
「じゃ、なぜなの?」
 天貝は、浅茅和歌子の意外な対応に面食らってしまった。想像もしなかった態度だ。つい、三ヶ月前のコマーシャルの制作時に比べると、信じられないほどの差である。一体どうしたのだというのだ。こちらが理由を聞きたかった。
 浅茅和歌子は、演技をしていた。故意に、こういう態度を取ったのだ。銀座の「式部」で、冬来部長と会っていた時、天貝の奥さんが自殺をした話を聞いた。彼女には、それはショックだった。『WAKA』のコマーシャル制作時には、殆どの時間を二人は共有していた。特に、プレミーティングの時には、コンセプトの再確認と撮影スケジュールの段取り。全てを二人で仕切った。
 その後の展開も予定通りに進んだ。これも、天貝の協力があったから出来たことだ。現に、天貝は寝食を忘れるぐらいの活躍を見せてくれた。それには、浅茅和歌子は感謝をしていた。ただ単に、仕事を超える、それも、代理店とクライアントという関係を超越するような、仕事をしてくれた。
 浅茅和歌子は分かっていた。天貝の自分に対する気持ちを。溌剌とした仕事プリを見ていれば、そんなことは、直ぐに理解できる。自分もそんな天貝の事を悪くないと思っていた。仕事にのめりこむ姿は、自分の男を見るセンスに叶っている。そんな男。今の、自分の周囲を見れば、冬来か天貝しかいなかった。それだけに、本当は大事にしたかったが、彼の奥さんの自殺を、冬来から聞いた時、もしかして、自分のせいなのかと思った。それに、後で、二人の子供がいる事を知った時には、もっと、ショックだった。
 仕事の関係とはいえ、いや、それ以上の感情が、仮にあったにしても、二人の子供の将来を奪うことは出来ない。奥さんの亡き後、天貝には、子供たちに対する責任があるのだ。それを承知しているからこそ、天貝には、辛く当たらなければいけない。そんな気持ちを正面きって、彼に言うわけには行かない。
 だから、辛く、厳しい対応をするしかないのだ。こんな気持ちを分かってくれないかも知れない。でも、それでいいのだ。浅茅和歌子は、心を決めていた。

「天貝さん、お子さんのところへお帰りなさい。寂しく待っているわよ。これからは、奥さんの代わりも、しなくてはいけないのでしょ。だから、早く、帰らないと」
 急に、優しい言い方に変わった。
「課長。どうしてそれを?」
「冬来さんに聞いたわ」
「部長が、それを言ったのですか?」
「そう。信じられない位に、あなたの事を心配していたわよ」
「…………………………………」
「だから、お帰りなさい」
 そう言うと、天貝を無視して、本堂の方に戻ろうとした。天貝は、慌てて、後を追った。その間、浅茅和歌子は一切、振り返らなかった。彼女の性分として、一度、心に決めた事は、梃子でも動く様子を見せない。天貝は、訳も分からずに、あたふたしながら小走りに続いた。
 浅茅和歌子のつれない素振りを黙認したまま、二人は岡山に戻った。電車の中でも押し黙ったままだった。日は落ちて、山際の夕闇が濃くなりそうな気配を見せている。駅に着くと、このまま、岡山に宿を取ることにした。天貝には願ってもないことだった。市内のホテルへ行った。
 天貝には不本意ではあるが、フロントで二部屋の予約をしようとした時、慌てた様子で浅茅和歌子が駆け寄ってきた。何があったのだ。何だ、この狼狽振りは。  そう言えば、ホテルのエントランスに入るや否や、浅茅和歌子は、天貝の傍を離れ、電話室に入って行った。どこかと連絡を取りに行ったのだろう。チェックインが出来るかどうか分からないのに、それは、天貝に任せた。
だが、天貝は、部屋の予約を入れるには、一応、浅茅和歌子の許可を取った方が良いと思い、彼女の姿を待っていた。
 浅茅和歌子が戻ってきた。その顔色は、真っ青だった。彼女には似つかわしくないほど、慌てている様子が目の当たりに分かる。言葉にも力がない。一体、どうしたのだ。ほんの五分前には何ともなかったのに。この変わりようは、何なのだ。天貝は、彼女に近づくと、
「課長、どうしたのですか。何か、あったのですか?」
 天貝から、声をかけられても、浅茅和歌子は黙っていた。
「どうしたのですか?」
 天貝がもう一度声をかけた。すると、辛うじて、小さな声が返ってきた。
「天貝さん、ごめんなさい。予約は取り消して下さい。わたくしは、これから、京都に向かいます」
「課長、どうされたのですか。少し、落ち着いてください」
 天貝は、そう言うと、フロントに行き予約を取り消した。ロビーに戻ると、浅茅和歌子は、ソファに座ったまま、意気消沈した様子で、すぐに動ける雰囲気にはなかった。彼女をここまで追い詰めるようなことがあったのだろうか。もし、あるとすれば、『WAKA』のことに違いない。今、緊急の問題があるとすれば、それしか考えられない。
 だが、それを確認するためには、天貝本人が、O&Uのメンバーに聞くしかない。そんな事をすれば、息子二人を置いてきた事を追求される。痛し痒しだ。そんな事を考えていると、浅茅和歌子が、バッグの中から自分の携帯電話を取り出し、天貝の前に差し出した。
「天貝さん、冬来さんから何回か、お電話をいただいているの。なにも、話さなくてもいいから、電話をしてくださる。そして、どんな様子か、あなたなりにニュアンスを感じて欲しいの。お願いね」
 えぇ、何だってそんな事をするのだろう。課長は、冬来部長とはツーカーの仲なのだから、何も、こんな事を自分にさせないで、本人が連絡をすれば済むことなのに。面倒くさい事を、なぜ、させるのだろう。
 そう思ったが、浅茅和歌子の命令では、聞かない訳には行かない。仕方なく、冬来の携帯の番号を押した。信号音が空しく響き、やがて、上擦った声が、劈くように聞こえてきた。
(もしもし、浅茅さん、浅茅さん。課長)
 何とか、浅茅和歌子を捕まえようとする、焦った声になっている。冬来部長には珍しく、慌てている。天貝は、何で、冬来が、そんなに焦っているのか分からないままに、ここは、ちょっと、浅茅和歌子の携帯を利用して、意地悪をしてやろうと、わざと、声を出した。
(部長、天貝です)
(天貝、何で、お前が課長の電話を使っているのだ。何で、お前がそこにいるのだ)
 冬来の動転した様子が、手に取るように分かった。これで、いいのだ。冬来は、天貝にとっては恩人であるが、こと、浅茅和歌子に関しては、最大のライバルである。これぐらいのショックを与えてみても、面白いだろう。そうすることで、まるで、愉快犯のような気分になっていた。
 電話が終わったのを見届けて、浅茅和歌子が、
「どんな感じでした?」
 と、聞いて来た。
 天貝は、自分自身のことしか考えていなかったので、フッと我に帰って、
「あぁ、すいません」
 と、言いながら、浅茅和歌子の脇に座った。浅茅和歌子は、冬来の反応を早く知りたかった。それが、分かれば、東京で何が起こっているのかの目安になる。Mブックセンターでの一件が、どんな状況になっているのか。最終的には、冬来の元に全ての情報が集約される筈だ。だから、それを知りたいと思ったのだ。
「課長、何があったのかは知りませんが、冬来部長の慌て方は、尋常ではありません。異常です。盛んに、課長の名前を呼んでいました。あれは、課長と連絡を取りたいという、サインです。具体的な中味は分かりませんが、東京で、何かが起こっていますね」
「…………………………………」
「課長。何が、あったのですか?急に、顔色が悪くなるし、無口になってしまって。心配事でもあるのではないですか?」
「いぇ、何でもないの。それよりも、冬来さん、それ以外に、何か?言っていませんでした」
 浅茅和歌子が、不安そうに聞いてきた。
「いぇ、ただ、課長!課長!と、言うだけでした」
「そう。」
 浅茅和歌子は、一言、そう言うと、後は、押し黙って虚ろな表情で何も話さなくなった。

 天貝が、思った通りになった。彼女の休暇を聞いた時から、嫌な予感がしていた。当初、思った胸騒ぎが、現実となってしまったのだ。だが、その胸騒ぎそのものの中身は、具体的に何なのかは分からなかった。
 昨夜に京都に入り、東山のGホテルに部屋を別々に取った。浅茅和歌子の憔悴振りが余りに酷いので、取敢えずは、一人にして落ち着かせようとした。ホテルに入ってから、浅茅和歌子の表情には、暗い影が落ちて、完全に余裕が消えていた。
 今までに、こんなに落ち込んでいる浅茅和歌子を見たことがなかった。そこには、いつもの凛々しさや、颯爽とした立ち振る舞いがない。あの溌剌とした面影は幻なのか。理由を聞いても何も話さない。折角、彼女を守るために、後を追うことにしたのに。
 もし、自分が浅茅和歌子の後を尾行けなければ、このような場面を彼女は、一人で対応しなければならない。だが、自分がいたからこそ、彼女の不安を和らげることが出来た。彼女は一人ぼっちではないのだ。少なくとも、今此処では、自分がついている。これから先、何が起こるのか。例え、何が起ころうとも、傍にいることで、彼女の役に立ちたかった。
 天貝のそんな思いを浅茅和歌子は分かっているのだろうか。夜が明けてから五時間が経っている。連絡もなければ、姿も見せない。どうしているのか。昨日の、あの重い感じを今日も引きずっているのだろうか。気になって仕方がなかった。 
 天貝は、浅茅和歌子からの、次なる連絡を待ちながら、仮に、冬来がここにいたら、どういう対応をとるのだろうか。彼女の傍にいて優しく見守るのか。それとも、悩んでいる理由を聞き出して、それの解決のために尽力するのか。興味を感じざるを得ない。
 だが、冬来は、自分のようには出来ないのだ。どんなに、彼女の傍にいて、助けてあげたいと思っても、所詮、それは無理というものだ。現実に、彼女の傍にいるのは自分だけだ。浅茅和歌子を助けられるのは、この天貝しかいないのだ。天貝は、そう思うことで、自分自身を納得させていた。
 そう思う一方で、ただ、傍にいるだけでは、力になれないこともあるという事も、薄々感じていた。それは、彼女の沈黙がそう思わせていたのだ。それに、自分が浅茅和歌子にとって、どんなポジションを占めているのか。彼女の真意が何処にあるのか。全く、それが、分かっていない。こんな不安な事はない。今でもそうだ。こうして、東京から京都、岡山、そして、また京都。その事を、浅茅和歌子がどう感じているかどうかは、今は、埒外なことだ。
 天貝が、そんな思案にくれていると、ドアがノックされた。
「天貝さん、浅茅です」
 会社にいる時と同じように、元気な声がドア越しに聞こえてきた。
 その調子からすると、どうやら、浅茅和歌子が、不安に束縛された状態から解放されたらしい。そう思いながら窓際を離れると、もう一度、ノックの音が重なった。急いで、ドアノブに手をかけた。彼女がどんな表情で顔を見せるのか。興味津々な気分になっている自分がお可笑しかった。
 ドアを開けると、浅茅和歌子が、色鮮やかな、明るいグリーンのスーツ姿で立っていた。生き生きとした顔つきだ。昨日の塞いだ表情は、一体、何だっただろうか。この表情を見る限り、昨日の暗さは微塵にも感じられない。一夜にして、これだけの変貌を見せたことに、驚きを感じざるを得ない。
 この立ち直りは、どうしたことなのか?これほどまでに変われるような、吹っ切れた出来事があったのか。
「天貝さん、これを、冬来さんに渡してくださる」
 と、言って、分厚い封筒を天貝に手渡した。天貝は、それを受け取ると、
「課長、この封筒の中身は何なのですか?」
「あなたに説明するようなものではありません。何も聞かないで、冬来さんに渡してくだされば、それで、いいのです。お願いいたします」
 浅茅和歌子は、完全に元に戻っていた。天貝に対する言いようは、明匠製菓の宣伝課長のそれだった。毅然とした態度。自信に満ちた抑揚には、既に、昨日の姿はなかった。

 浅茅和歌子は、京都Gホテルの部屋に入ってからも、東京での出来事に思いを巡らしていた。自分が休暇をとったタイミングに、予期しないことが起きた。まさか、そうなるとは思わなかった。
 《山陽百人一首》の一部の作品を、新製品のコマーシャルに使い、それが、あるターゲットされた人に対する、メッセージになっていることに、関係者以外の人が、気がつくとは想像だにしなかった。偶然なのか、必然なのか。それに気がついた人がいるのだ。それも、テレビを視聴してではなく、自分がチェックできなかった、イベント会場で、たまたま、モニターを見た人に気づかれたのだ。
 テレビの視聴者は何千万人といる。その人たちが、『WAKA』のコマーシャルを視聴している。普通の感覚で考えれば、何千万人という、テレビの視聴者の中に、気が付く人がいるのは当然のことと思う。実際、浅茅和歌子も、捜査関係者や見知らぬ人からの指摘がくるのを、ビクビクしていた。だが、幸いにも、目的どおりのメッセージを受け止めた人しかいなかったのだ。その意味では、成功したのだ。
 そんな過信に浸っている間に、『小倉百人一首展』のイベントに来た、ごく一部の限られた人の中に、あのコマーシャルを見て、気が付いた人がいたのだ。事件の捜査関係者が、会場で見ていたのだろうか。もし、そうであったら、今さらジタバタしても仕方がない。こうなるのも、遅かれ早かれ、時間の問題だったのだ。何時までも、隠し通して行けるとは思っていなかった。どこかで、破綻するとも思っていた。
 一時の迷い。それにショック。自分でも信じられないぐらいの取り乱し。心配事が頭を駆け巡る。だが、ベッドに倒れこんで眠れない闇を、そのまま受け容れると、不思議なことに、時間が経つにつれて、頭が整理され落ち着きを取り戻した。
もう、覚悟が出来ていた。何のために、両親の墓参りをしたのか。もしかして、これが最後で、二度と墓前に立つことは出来ないとの、思いもあったのだ。何も残す事はないと、殆ど一睡もしていなかったが、部屋にあったパソコンで、手紙を三通書いた。
 一通は冬来宛。もう一通は、明匠製菓の薮内社長。最後のものは、「式部」のマスター、大岳宛だった。

「天貝さん、ここで別れましょう。あなたには、それを東京に運ぶ責任があるのよ。本当は、郵送にしようと思ったのですが、ちょうどいい、運び屋さんがいたわ」
 浅茅和歌子は、そう言いながらも、天貝を東京へ帰し、二人の子供の元に戻そうとしたのである。このまま、一緒に来られては、後のことを考えると、足手まといになる。それよりも、奥さんのいない後の親の役割を、立派に果たさなければならない。それが、父親としての勤めだ。
 天貝は、突然の注文に面食らってしまった。自分の筋書きにはない展開だ。飽くまでも、彼女の傍にいて、しっかりと見守って行きたかったのに。三ヶ月の間、二人きりになる瞬間を待ち続けていた結果がこれでは、あまりにも、自分が可哀相だ。子供を犠牲にしてまでして、後を追い、彼女に尽くそうと思ったのだ。このまま、ここで別れたら、もう二度と会う事は、多分出来ないだろう。
 彼女は、見た目では平静を装っているが、内心は、不安で居たたまれない筈だ。何が、そうしているのかは分からないが、昨日までの、あの姿を見ていれば、それぐらいの事は分かる。それが、急に強気な態度に変換した。余裕すら感じさせている。ただ単に、仕事上のことであるならば、休暇を切り上げて東京へ帰れば済むことだ。だが、彼女は、そうはしない。つまり、問題になっている事は、仕事上のことではないのだ。彼女の個人的なことだ。
 天貝は、そう思うと、その具体的な内容を知りたいと思った。
「課長、昨日から起こっている問題は、会社には関係がないことですね」
「どうして、そう思うの?」
「だって、そうじゃないですか。もし、会社のことであれば、休暇を止めて、東京へ帰ればいいし、それでなくても、関係者に指示を出せば、それで済むことではないですか。でも、そうはしないで、このまま京都にいて、内容は知りませんが、手紙を私に託す。どう考えても、個人的なこととしか、思えませんよ」
「…………………………………」
 浅茅和歌子は、天貝の言葉に反応しなかった。黙ったまま、手紙を手渡した。そして、右手を差し出すと、天貝のやはり、右手を誘い、固く握った。天貝も、それに、手早く反応した。その上で、
「課長、ここまできたら、余計なことは探索しません。ですが、私が、東京に戻ったら、その後は、どうされるのですか?」
 と、聞いた。
 浅茅和歌子は、握手した手を離すと、窓辺に寄添い、暫くの間、外を見ていた。すると、おもむろに振り返り。
「天貝さん、今まで、いろいろ、本当にありがとう。あなたには、感謝しているわ。『WAKA』の成功も、冬来さんをはじめとした、O&Uの皆さんのお蔭。中でも、コマーシャルの制作では、あなたのセンスと惜しみない努力。あの短期間での仕事。素晴らしかった。いい思いをさせていただいたわ。
 でもね、時の流れは、残酷なことも生み出すの。私の過去にも、たくさんあったわ。現在も、そう。もしかしたら、あなたの奥さんも、その犠牲になったかも知れない。まだ、他にも、数多あるのね。それも、自分が蒔いた種だから仕方がないけれど。だから、これからの事は、自分で、その始末はつけなければ、と思っているわ。心配しないで。それよりも、もう一度言っておきますが、お子さんのこと、くれぐれも頼んだわね。約束よ」
 浅茅和歌子は、しっかりした口ぶりで言い切った。そして、手紙を持ったまま、黙って立っている天貝の脇を通って、ドアに向かった。天貝は、止めなかったし、声もかけなかった。
 浅茅和歌子は、ドアノブに手をかけた後、またも、半身で振り返った。
「その手紙、全てを冬来さんに渡してくださる。あなたの知らない人もいますから」
 浅茅和歌子は出て行った。一人残された天貝の視線は、封筒に書かれた冬来と、いう文字に釘付けになって、動くことはなかった。


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